エッセイ · 近代美術

パブロ・ピカソ(Pablo Picasso)「Guernica」。

Pablo Picasso. Guernica.

待つことを知っていた絵。

パブロ・ピカソ「Guernica」。牡牛、傷ついた馬、子を抱く母、ランプを持つ女が描かれた、黒と白と灰色の横長の絵

Museo Reina Sofía · Museo Reina Sofía



パビリオンのための一枚

1937年、スペイン共和国政府はピカソに、パリ万国博覧会のスペイン館のための大作を依頼した。国は内戦のさなかにあった。ピカソは当時パリで暮らし、制作していた。

そこへ知らせが届いた。バスクの町ゲルニカが、1937年4月末、コンドル軍団によって空から爆撃された。共和国と戦っていたナチス・ドイツの航空部隊。ピカソはフランスの新聞でその写真を見た。そして描きはじめた。

マドリードのソフィア王妃芸術センター(Museo Reina Sofía)によれば、作品は1937年5月1日から6月4日のあいだにパリで制作された。高さ349.3センチメートル、長さ776.6センチメートルのカンヴァスの油彩に、わずか一か月あまり。一目で見わたせる人はいない。後ろへ下がり、壁に沿うように、その前を歩く。

黒、白、灰色

ピカソは色を脇に置いた。絵全体が灰色の濃淡で描かれている。グリザイユと呼ばれる技法。美術館は、横長の画面と色の不在が、映画と報道写真を指していると示唆する。当時のヨーロッパの人々が戦争を知ったメディア。

構図はピラミッド。歴史画ではおなじみの構造。ピカソはルーベンス、ドラクロワ、ダヴィッド、ゴヤから借りている。自分自身からも借りている。いくつかの要素は、1935年のエッチング「ミノタウロマキア」にすでに現れている。

美術史家アンソニー・ブラント(Anthony Blunt)は人物を二つのグループに分けた。まず三頭の動物。牡牛、傷ついた馬、そして左の暗がりにかろうじて見える翼のある鳥。次に人間。地面に倒れた死んだ兵士、右上の窓から身を乗り出しランプを掲げる女、左で死んだ子を抱いて泣き叫ぶ母、右から駆け込んでくる女、そして背後の家が燃えるなか両腕を空へ上げる女。

絵にも習作にも、ゲルニカを直接指すものは何もない。地名も、飛行機も、日付もない。町は題名の中にだけ生きている。残りは、どこであれ戦争の残酷さへの普遍的な抗議。

故郷から遠く離れた四十年

共和国は1937年にピカソからこの絵を取得した。2年後、共和国は戦争に敗れ、続いて第二次世界大戦が始まった。ピカソは戦いが終わるまで「Guernica」をニューヨーク近代美術館に預けた。

戦いは終わったが、スペインは独裁体制のままだった。1958年、ピカソは貸与を無期限に延長した。条件はひとつ。民主主義が回復したときにだけ、この絵はスペインへ行く。彼はそれが実現する前、1973年に亡くなった。

1981年、「Guernica」はスペインに到着し、プラド美術館の一部であるカソン・デル・ブエン・レティーロに掛けられた。1992年、ソフィア王妃芸術センターへ移された。その短い移動のために、カンヴァスが巻かれずにすむ木箱がつくられ、車両が改造され、展示室へ運び入れるためのリフトが組まれた。映画監督ティノ・カラブイグ(Tino Calabuig)が通りからその移送を記録した。

それが掛かる部屋

ソフィア王妃芸術センターは、訪れる人の多くが知らない細部を伝えている。内戦中、「Guernica」がいま掛かっている部屋は、コンドル軍団の空襲を生き延びた人々が手当てを受けた場所だった。建物は当時、病院だった。

だからこの絵は、遠い悲劇について語るだけではない。ここでは、同じ種類の傷を見てきた部屋に、マドリードそのものの中に立っている。壁とカンヴァスがひとつの記憶を分かち合う。

ピカソは「Guernica」をめぐって多くの習作とのちの作品をつくった。「泣く女」の連作もそのひとつ。その顔は大きなカンヴァスから歩み出て、今度は色をまとって生きつづけているように見える。

「Guernica」はいま、20世紀の反戦のイメージとして読まれている。だがその前に立つと、まず感じるのは象徴ではない。大きさ。灰色の沈黙。すべてが一度に起きていて、隠れる場所がどこにもないという感覚。