エッセイ · 嗅覚アート
シセル・トラース「Invisible Pompeii」
Sissel Tolaas. Invisible Pompeii.
土の層のひとつひとつが、匂いの層。
Sissel Tolaas 提供 · Flash Art
発掘現場のアーティスト
シセル・トラース(Sissel Tolaas)は1965年にノルウェーのスタヴァンゲルに生まれ、ベルリンで活動する。1990年から匂いを研究してきた。Flash Art によれば、彼女のコレクションには1万5千を超える匂いの試料と処方があり、ベルリンに自ら設立した研究所 SMELL RE_searchLab に保管されている。
「Invisible Pompeii」は、南イタリアのポンペイ遺跡公園での彼女のプロジェクト。ニコレッタ・フィオルッチ財団(Nicoletta Fiorucci Foundation)とともに進めるプログラム「Pompeii Commitment. Archaeological Matters」の一環。プログラムの公式サイトによれば、研究は2020年に始まった。現場での分子の採取は2022年2月から9月にかけて行われた。
主題は、トラースが smell heritage、匂いの遺産と呼ぶもの。遺跡のなかにいまも閉じ込められた嗅覚の遺産。ポンペイは79年、ヴェスヴィオ山の灰に埋もれたローマの都市。何世紀にもわたる発掘が、家々、通り、フレスコ画、道具を掘り出してきた。その場所の匂いは、体系的に記録されたことがなかった。
トラースは訪問者として来たのではない。考古学者、人類学者、生物学者、地質学者、心理学者とともに働いた。あるとき地質学者が、79年の地層がまさに開かれるその瞬間にデータを記録するよう彼女を招いた。
鼻が最初の道具
トラースの方法は、その場にいることから始まる。Flash Art に語ったところでは、過程はまず彼女自身が現場に立つことから始まり、彼女が最も高度なインターフェースと呼ぶもの、鼻を携えて臨む。彼女の考えでは、人の鼻は膨大な数の分子を嗅ぎ分けられる。ふだん思っているよりずっと多く。
機械は鼻のあとに来る。彼女は機器を使い、揮発する分子をその場でとらえる。肝心なのは、土を現場から持ち去らないこと。匂いは生まれた場所で、層がさらされた瞬間に、空気と時間がそれを変える前にとらえられる。
名前の挙がった場所のひとつが、Casa degli Amorini Dorati、黄金のキューピッドの家。室内装飾で知られる邸宅。すでに詳しく調べられた壁やフレスコ画のかたわらで、トラースは別の情報の層を探した。写真に撮る像を持たない層を。
アーカイブは分子だけではない。現場のガイドや職員との会話も、その一部として記録される。遺跡のあいだで毎日暮らし、働く人々もまた、その場所がどんな匂いかを知る源。
見えないもののためのアーカイブ
「Invisible Pompeii」の目的は、ポンペイ初の匂いのアーカイブを始め、より多くの感覚で遺産を理解するための道具一式をつくること。出発点は単純な前提。匂いは人の暮らしに欠かせない一部であり、だから現在と過去の両方を理解する道具になる。
トラースはさらに先の段階を思い描く。フィールド研究所。そこでは匂いの考古学が、一度きりのアートプロジェクトではなく、続いていく実践になりうる。
心に残るのは、79年の空気を再現するという約束ではない。トラースは、噴火の前日の匂いを嗅がせるとは言わない。彼女がするのは、もっと控えめで、もっと正確なこと。今日、地面が開かれるときに、そこから立ちのぼるものを記録する。それは無傷の過去の匂いではなく、2千年近くを通り抜けてきた場所の匂い。
考古学は、見て、手に持てる物の学問だった。陶片、硬貨、骨、壁。「Invisible Pompeii」は、手に持てないものを加える。層が開かれるたびに、わずかな情報が空気へ逃げて消えることを示す。つい最近まで、誰もそれをとっておかなかった。