エッセイ · 嗅覚アート
オリヴィア・ヴィーダーケール、アンドレアス・ヴィルヘルム「Schmerzh」
Olivia Wiederkehr, Andreas Wilhelm. Schmerzh.
街にも記憶がある。そしてその記憶には匂いがある。
© Stadt Zürich, KiöR · SCHMERZH(プロジェクトサイト、Kunst im öffentlichen Raum, Stadt Zürich)
6つの広場、3週間
2024年9月2日から22日まで、チューリッヒの公共の場所6か所に見知らぬ匂いが漂った。イダ広場、ブリンガー広場、リンデン広場、レッシュバッハ広場、ルイ・ファーヴル広場、そして旧レッテン駅。新しい記念碑はない。大きな看板もない。あるのは匂いだけ。舗道の下の技術用立坑から、内部に置かれたディフューザーを通って立ちのぼる。
プロジェクトの名は「Schmerzh」。Schmerz はドイツ語で痛み。末尾の二文字 zh は、ナンバープレートと同じく、チューリッヒ州を表すおなじみの略号。だからこの名は「チューリッヒの痛み」と読める。英語の副題は、記憶は薄れないと付け加えた。
制作はチューリッヒのアーティスト、オリヴィア・ヴィーダーケア(Olivia Wiederkehr)。市のパブリックアート部門 Kunst im öffentlichen Raum の委嘱による。香りは同じくチューリッヒを拠点とする調香師、アンドレアス・ヴィルヘルム(Andreas Wilhelm)とともに組み立てられた。コミュニケーション会社 Live Lab が物語づくりを担った。
通行人には予告されなかった。歩いて通り抜け、匂いに気づき、そのあとで初めて近くの小さな表示を読むか、プロジェクトを調べた。
街が自らの物語を語る
「Schmerzh」の考えは、街に語らせること。チューリッヒはふつう、豊かで清潔で穏やかな街と見られている。プロジェクトは逆を問う。この街はどんな痛みを目撃し、あるいは許してきたのか。差別。排除。搾取。黙らされた声。プロジェクトはそれと並んで、よい記憶も記す。街の記憶は一色ではない。
それぞれの場所は、土地の歴史とのつながりで選ばれた。スイスに働きに来た移民労働者に関わる場所もある。旧レッテン駅は、街の真ん中に開かれた薬物の場があった年月を思い起こさせる。どれも新しい話ではない。だが、それが起きた場所で語られることはまれだ。
香りが記念銘板の役目を果たす。プロジェクトはよく知られた問いから始まる。何かの匂いを嗅いで、ふいに記憶が浮かぶ感覚を知っているか。「Schmerzh」は同じ仕組みを使う。ただしそれを、誰ひとりのものでもない共有の記憶へ向ける。
匂いと並行して、プロジェクトはソーシャルメディアのアカウントを運営した。そこでは6つの場所に結びつく土地、人、団体の物語が、3週間にわたって語られた。匂いが扉を開けた。言葉はあとから入ってきた。
暗くなる柔らかな匂い
「Schmerzh」の香りは、不快にするためにつくられたものではない。プロジェクトと地元紙によれば、フローラルに、ローズやゼラニウムに近く開き、そのあとチョコレートやナツメグを伴う、暗くスパイシーで土っぽいトーンへ移る。心地よいから人を立ち止まらせ、何かが落ち着かないから人を引きとめる匂い。
この選択には意味がある。悪臭なら人を遠ざける。よい匂いは考えるのに十分なあいだ人をとどめる。「Schmerzh」の痛みは誰にも押しつけられない。招き入れられる。
記念の芸術はふつう、石、青銅、刻まれた名前を使う。それらは長く残る。長く残るからこそ、たやすく風景の一部になり、もう見られなくなる。香りは逆に働く。とどまったのはわずか3週間。風、気温、そして通行人がちょうどよい瞬間に息を吸うかどうかに左右された。プロジェクトが終わると、作品は消えた。鼻で街を読む試みには先例がある。たとえばブライアン・ゴルツェンロイヒターの「Smelling the City」。だが「Schmerzh」は痛みを語ることを選んだ。
2025年、「Schmerzh」は香りを用いた実験的作品に贈られる Sadakichi Award のファイナリストになった。記念碑は形を持たなくてもよい、と認めるひとつのかたち。それは街角のひとときの空気でありうる。夏の終わりの数日間の。