エッセイ · 現代アート
ブルース・ナウマン(Bruce Nauman)。「Raw Materials」。
Bruce Nauman. Raw Materials.
空っぽの部屋は、何もない部屋ではない。
見るもののないホール
ロンドンのテート・モダンのタービン・ホールは、とても長く、とても高い空間。かつては発電所のタービン室だった。毎年 The Unilever Series の一環として、一人の作家がこの空間のためだけの作品を依頼された。それまでの作家たちは、ここを何か巨大なもので満たす傾向があった。そのわずか前年、オラファー・エリアソンは奥の端に人工の太陽を吊るし、人々は床に寝そべってそれを見上げた。
2004年、ブルース・ナウマンの番が来た。彼はホールを空のままにした。
物は何もつくられなかった。スピーカーがあった。そこから声が流れた。ナウマン自身の過去の作品からとられた、言葉の短い断片。テートは技法を短く記す。オーディオ、21チャンネル、モノラル。作品は現在テートのコレクションにある。
入ってきた人々は、たいてい立ち止まった。何か見るものを探した。何もなかった。それから、耳を傾けはじめた。
足で聴く
スピーカーはそれぞれ自分の声を持つ。ひとつの近くに立てば、文がはっきり聞こえる。数歩進めば、それは薄れ、別の声が大きくなる。そのあいだでは二つ、三つの声が重なり、どれも全体としては聞こえない。
だから訪れた人は一人ひとり、違う作品を聞く。速く歩く人には、断片の連なりが聞こえる。立ち止まる人には、繰り返されるひとつの言いまわし。ホールを巡る人は、自分だけの版を組み立てる。
主となる視点はない。絵の前のような、立つべき最良の場所もない。あるのは道筋だけ。見る者というより聞く者になった訪問者が、自分の身体で作品を組み立てる。
ホールも役目を果たす。コンクリートと鋼が音を跳ね返す。小さな部屋の声は近く、はっきりしている。この大きさのホールでは、声は広がり、こだまし、輪郭がにじむ。建築が音の一部になる。
原材料としての言葉
ナウマンは早くから言語を扱ってきた。多くの作品で、言葉はネオンとして、録音された声として、耳障りになるまで繰り返される短い言いまわしとして現れる。彼は言葉が何を言うかより、言葉が聞く者に何をするかを気にかける傾向がある。
「Raw Materials」はそうした断片をひとつに集める。タイトルが、彼の見方を示している。原材料。引用でも、名文のアンソロジーでもない。彫刻家の台の上の粘土のような物質。古い作品からとられ、新しい作品を築くためのもの。
もとの文脈から持ち上げられると、言いまわしは変わる。かつて映像やパフォーマンスに属していた一行が、今は空中に自由に漂う。枠もなく、部屋の中に話し手もいない。声がひとつと、その声と耳とのあいだの距離だけ。
文を十分に繰り返せば、意味は薄れていく。聞く者はリズムや音の高さ、言葉のあいだの息に気づきはじめる。言語はその原初の状態に戻る。身体から出てくる音に。
写真に撮れない作品
ここにはひとつの逆説がある。タービン・ホールは、人々が何か大きなもの、写真に撮るべきものを期待する場所。ナウマンは、写真に撮れない作品で応えた。「Raw Materials」の写真に写るのは、空っぽのホール、歩く数人、いくつかのスピーカー。
その空っぽさが、ホールにいつもありながらふだんは隠れているものに気づかせる。その長さ、足音、ささやき、上から落ちる光。何も空間を占めないとき、空間がみずからを現す。
「Raw Materials」は、聴くことについても問いかける。私たちは毎日、声に囲まれて暮らしている。電話、アナウンス、近くの会話。それを物質として聞くことはめったにない。ナウマンのホールでは、声は方向を持ち、距離を持ち、場所を持つ。物のように、場所を占める。
人々は像を持たずに去る。聞きかけの文をいくつか持って去る。それはしばらく頭の中で鳴り続け、やがて薄れる。