エッセイ · 現代アート

タシタ・ディーン。「FILM」。

Tacita Dean. FILM.

フィルムは像であるだけでなく、物である。

タシタ・ディーン「FILM」。テート・モダン、タービン・ホールの奥に立つ高さ約13メートルの縦長の35mmフィルムの像

Tate · Tate



直立するフィルム

2011年、タシタ・ディーンは「The Unilever Series」を引き受けた。毎年ひとりの作家を招き、テート・モダンのタービン・ホールを満たしてもらうプログラムだ。ホールはかつて発電所のタービン室だった。長く、高く、満たすのが難しい。彼女の前には、オラファー・エリアソンが人工の太陽を吊るし、アイ・ウェイウェイが何百万粒もの磁器のひまわりの種を床一面に広げていた。

ディーンは物を持ちこまなかった。持ちこんだのは像だった。ホールの奥に高さ約13メートルのスクリーンが立ち、そこに約11分のループで無声の35mmフィルムが流れた。フレームは映画のスクリーンのように横長ではない。ランプにかざしたフィルムの一片のように、縦に立っていた。

両端に沿って、映写機にフィルムを送るパーフォレーションが走っていた。ふだん観客が目にすることはない。ここではそれがすべてを縁どっていた。

Tate は技法を素っ気なく記す。35mmフィルム、映写、白黒およびカラー。タイトルも同じように素っ気ない。「FILM」、すべて大文字、標識のように。

すべてはカメラのなかで

スクリーン上のものは何ひとつコンピュータで組み立てられていない。ディーンは古い映画の技法で、カメラのなかで像を作った。レンズの一部を覆う、同じ区間のフィルムに何度も露光する、巻き戻す、また撮る。どの層も、本物の光が本物の乳剤に触れた瞬間だ。

この方法は遅く、何も許さない。一度露光に失敗すれば、最初からやり直し。けれどデジタルの道具がまねしにくい像が生まれる。互いに滲みあう光の層、少しずれた色、どのコマにも震える粒子。

2014年、「Tate Etc.」に載ったエッセイは作品を思いがけない仕方で読んだ。「FILM」は、アナログフィルムをデジタルより素朴で真正なものとして称えるのではない。フィルムはもともと混成のメディウムであり、錯覚を生み、存在しない世界を築くことができたと示す。ディーンが前に置くのは、世界を記録する機械ではなく、像をつくる行為だ。

つまり「FILM」は現実の写真ではない。一コマずつ手で作られた物だ。

消えゆく素材の肖像

時期が肝心だ。2010年代のはじめ、映画は急速にデジタルへ移った。フィルムの工場は閉じ、現像所は処理をやめた。ディーンがキャリアを通じて使ってきた素材、16mmは、もう作られなくなるおそれがあった。

2006年、彼女は「Kodak」を作っていた。買い手がなくなり閉鎖されようとしていたフランスのコダックのフィルム工場で撮った、約44分の映画。フィルムの製造についてのフィルム。2011年、「FILM」の公開前には、16mmを存続させるようコダックに求める請願を回した。

ディーンはデジタルが劣るとは言わなかった。ふたつは違うと言い、求めたのは共存だった。望む人のためにアナログフィルムが選択肢として残ること、一方の台頭が他方の消去を意味しなくてよいこと。違いは乳剤対ピクセルだけでなく、詩に近い何かだとも示唆した。

「FILM」はこれを言葉なしに語る。建物ほどの高さの像が、見捨てられようとしている素材そのものから作られ、古い発電所のなかに置かれる。産業の時代のふたつの遺物が向かいあう。

なぜ残るのか

タービン・ホールでの展示のあと、「FILM」は Tate Members からの寄贈としてテートのコレクションに入った。特定のひとつの部屋と結びついた作品が、いまは再び映写できる物として保管されている。

記憶に残るのは、どれかひとつの像ではない。あの11分間に何を見たかを正確に思い出せる人はまれだ。覚えているのは、とても高く、とても明るく、とても静かなものの下に立ち、その光が本物のプラスチックの帯を通り抜けていると知っていたことだ。

フィルムには重さがある。暗室の化学の匂いをまとい、傷がつき、燃えることがあり、褪せることがある。「FILM」は、どの像もかつてそういう物の上にあったことを思い出させる。物が消えるとき、ひとつの見方もともに去る。