エッセイ · 現代アート

ダン・フレイヴィン(Dan Flavin)「'monument' for V. Tatlin」

Dan Flavin. 'monument' for V. Tatlin.

誰にでも買えるものでつくられたモニュメント。

ダン・フレイヴィン「'monument' for V. Tatlin」:中央に向かって塔のように高くなる、並んで立つ白い蛍光管

Tate · Tate



塔として立つ管

作品は壁に掛かる。高さ約3メートル、幅60センチ足らず。金属の支持体に取りつけた、ふつうの白い蛍光管でできている。管は縦に並んで立ち、中央がいちばん高く、両側へ段々に低くなり、尖った塔の形をつくる。

特別につくられたものは何もない。管は工業製品で、オフィスの天井や作業場、廊下のために買われる類のものだ。一本が切れたら、同じ型の別の一本と取り替えられる。フレイヴィン自身がそう言っている。管は、工業的な品質管理の許すかぎり、実質的に同一だと。

光はクールホワイト。フレイヴィンのタトリンのモニュメントはすべてこのクールホワイトを使い、注意が色ではなく構造に向かうようにしている。

作品の制作年は1966年から1969年。テートは1971年、ニューヨークの John Weber Gallery を通じて作家から購入した。

タトリンの塔

V. タトリンとは、1885年から1953年を生きたロシアの芸術家、ウラジーミル・タトリン(Vladimir Tatlin)のこと。彼が何よりも記憶されているのは、実現しなかった計画、第三インターナショナル記念塔によってだ。1919年から1920年に設計された回転する螺旋の塔で、もし建っていればエッフェル塔より高くそびえていた。

塔は図面と模型のなかにしか存在しない。それでも20世紀の多くの芸術家にとって、それはひとつの約束の像だった。芸術と工学が肩を並べ、共同の暮らしに仕えるという約束。

フレイヴィンはタトリンを深く敬愛していた。1972年のテート宛ての手紙で、彼はタトリンを控えめな芸術家エンジニアと評し、芸術を日々の関心から切り離す制度の外で働いた人だと書いている。1964年12月、ブルックリン美術館付属美術学校で初めて公の場で話したとき、フレイヴィンは十分に追求されてこなかったと感じる20世紀の計画を三つ挙げた。タトリンの塔はそのひとつだった。

引用符のなかのモニュメント

それでも、このシリーズの形はタトリンの設計から直接とったものではない、とフレイヴィンは言う。螺旋もなく、回るものもない。高さの違う管が縦に立っているだけだ。

monument という言葉が引用符に入っているのは、フレイヴィンによれば、半分は冗談だ。これらはモニュメントだが、規格品の照明器具でできている。伝統的なモニュメントには石と青銅、高い台座、長い年月が要る。フレイヴィンのものに要るのは、数本の管とソケットと壁だけだ。

二つのあいだの距離こそ、作品が私たちに見るよう求めるものだ。片方には、ついに立ち上がらなかった巨大な塔。もう片方には、もっとも安く、もっとも取り替えのきく物。フレイヴィンは、自分がタトリンのなかに称えたその慎ましさそのものによって、タトリンを称える。

二十枚のドローイングと地下鉄

1964年から1970年のあいだに、フレイヴィンはこのシリーズのためにおよそ二十枚のスケッチを描いた。数えたことはないと本人は言う。管が塔のように縦に立つものもあれば、斜めに寝るもの、さまざまな角度にばらけるものもある。

最初のタトリンのモニュメントは、1965年5月、ペンシルベニア大学のインスティテュート・オブ・コンテンポラリー・アートに設置された。テートの作品は1966年の設計の変形で、中央の管が約1フィート高くなっている。フレイヴィンの回想によれば、そのスケッチは最初は不正確に記録された。マンハッタンで地下鉄に乗りながら描いたからだ。そのため1969年のオタワでの回顧展のために描き直さなければならなかった。

それぞれの設計は5点のエディションで存在する。これも考えの一部だ。作品は、かけがえのないひとつの物にあるのではない。何度でも組み立て直せる配置にある。

別のエッセイ、マーファのプロジェクトでは、フレイヴィンの色の光が建物全体を満たす。ここではすべてがもっと小さく、もっと白い。壁一枚、管が数本、そして塔を夢見たひとりの男の名前。