エッセイ · 近代美術
ジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico)「The Uncertainty of the Poet」
Giorgio de Chirico. The Uncertainty of the Poet.
まもなく腐るものと、決して変わらないもの。
Tate · Tate
人のいない広場
「The Uncertainty of the Poet」はカンヴァスに油彩、高さ106センチ、幅94センチ。左下にデ・キリコはローマ数字で年を添えて署名した。M.CM.XIII、1913年。パリで、おそらくその冬に描かれた。
前景には、頭も腕もない女性の石膏トルソが立つ。その足もとに、熟れた黄色いバナナの房が横たわる。右手ではアーケードが急な角度で奥へ退き、濃い影の塊を落とす。視線の先には長い煉瓦の壁が続く。壁の向こうを、煙をたなびかせて汽車が通る。さらに遠くに、船のマスト。
空はエメラルドグリーン。午後に誰も予想しない色。光は低く、影は長い。生きている人の姿はない。
テートは、太い黒の輪郭線、くっきりと区切られた影の部分、版画のように像に施された粗いハッチングを指摘する。すべてが奇妙に現実的で、同時に舞台装置のように薄い。
モンパルナスの店の像
この像は古代の傑作ではない。テートはそれを、ギリシャやローマの原作ではなく十九世紀のアカデミックな教育に根ざした、アフロディテ型の石膏像と説明する。
のちにこの絵を所有したローランド・ペンローズ(Roland Penrose)は、こうした石膏像がパリでよく知られ、モンパルナス界隈の多くの店で、いつも同じ大きさで売られていたと回想している。ペンローズ自身も1935年に一体を買った。マティスは1919年、それを静物画に描いている。
つまりデ・キリコは、絵の中心にありふれた物を置いた。デッサンを学ぶために買われるような物。人のいない広場で、それはひとりの登場人物になる。テートによれば、1913年以降、石膏像によって彼は人の姿を静物の一部として扱えるようになった。傍らの果物より重要でもない。人はそこにいる。一時的なものをすべて剥ぎ取られて。
バナナはその反対。当時の手稿にデ・キリコは、バナナの木の幸福と、金色で甘い熟れた果実の贅沢について書いている。テートは、果物と石膏像が二つの極として置かれているのかもしれないと示唆する。一方に身体、感覚、はかなさ。もう一方に、永遠に静止した物。
形而上絵画
デ・キリコは1911年7月、イタリアからパリに着いた。途中でトリノに数日立ち寄り、そのアーケードのある広場と数多くの彫像が彼の中に残った。1935年に彼は書いている。トリノではすべてが出現であり、広場に入ると、彫像にしかできないまなざしで見つめる石の男に出会う、と。
詩人ギヨーム・アポリネール(Guillaume Apollinaire)は1912年にデ・キリコと出会い、パリでのもっとも強い支持者となって、これらの絵を形而上的な風景と呼んだ。いくつかの題は彼がつけたとされるが、この題の出どころはわかっていない。
デ・キリコは一点透視図法を捨てた。前景と背景は噛み合わず、アーケードの誇張された斜線でつながれている。空間は現実らしく見えることを目指していない。落ち着かなくさせることを目指している。
汽車は個人的な記憶を運んでいるのかもしれない。父は鉄道技師で、デ・キリコが11歳のときに亡くなった。この時期の絵には汽車が繰り返し現れ、しばしば小さく、ほとんど玩具のようである。
ギヨームからエリュアール、そしてペンローズへ
デ・キリコは画商ポール・ギヨーム(Paul Guillaume)と契約していた。1915年5月、イタリア軍に加わるためフランスを去ったとき、近作の多くはギヨームのもとに残った。1922年春、ギヨームはそのうち59点をパリで展示し、アンドレ・ブルトンが序文を寄せた。この絵もその中にあった。
詩人ポール・エリュアール(Paul Eluard)が、おそらく1922年秋にこれを買った。エリュアールは、デ・キリコの広場は本物の広場のように見えるが、私たちが一度も見たことのない広場だと書いた。シュルレアリストたちにとって、彼の絵は、夢のような並行世界がありふれた物からつくれることの証だった。
1938年、エリュアールはコレクションの多くをローランド・ペンローズに売り、この絵もそこに含まれていた。絵は長年、サセックスにあるペンローズの農家に掛けられていた。1985年、テートがペンローズの遺言執行者から購入した。
1968年、五十年以上を経て、デ・キリコはほぼ同じ配置をもう一度描いた。像、バナナ、アーケード、影、壁。違いはひとつ。汽車もマストもない。去る者はいない。