エッセイ · 写真
杉本博司(Hiroshi Sugimoto)「Theaters」
Hiroshi Sugimoto. Theaters.
映画一本、そして光だけが残る。
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二時間、一回の露光
1976年、ニューヨーク。杉本博司は大判カメラを映画館に持ち込んだ。映画が始まると、シャッターを大きく開けた。およそ二時間後、映画が終わると、それを閉じた。映画のすべてが、一枚のネガに記録された。
結果は奇妙な像だった。スクリーンには何の絵もない。明るい白の長方形が、平らに静まり、光へ開く戸口のようにあった。上映のあいだずっと闇に沈んでいたまわりの空間が、はっきりと現れた。壁の模様、彫刻をほどこした繰形、ベルベットのカーテン、誰もいない座席の列。
写真に人はいない。観客は来て、座り、立ち上がり、去ったが、ネガにとどめるには動きすぎた。二時間じっとしていたものだけが残る。部屋が残る。人は消える。
ここには逆説がある。スクリーンからの光だけが、部屋を照らす唯一のものだ。明るい場面のたびに、天井、壁、座席に少しずつ光が落ちる。二時間分が積み重なり、部屋がネガに現れるのに十分になる。映画は消える。けれども、まわりのあらゆる表面に痕跡を残す。
最初の写真は、ニューヨークの劇場でつくられた。1976年の「U.A. Fox」、1977年の「Trylon」と「U.A. Belle Beau」。
映画宮殿からドライブインへ
杉本は数十年にわたって「Theaters」を続け、さまざまな上映空間へと広げた。20世紀初めのアメリカの映画宮殿は、内部がオペラハウスのように装飾で満ちている。ドライブイン・シアターでは、白いスクリーンが夜空の下に立ち、まわりの空は、露光のあいだに横切るものを何でも記録する。
タイトルのリストは、それ自体が地図だ。「Royal, San Francisco」1992年。「Carpenter Center, Richmond」1993年。「Metropolitan Palace, Los Angeles」1993年。オレンジの「Stadium Drive In」、カルバーシティの「Studio Drive In」、「Azusa Drive In」、いずれも1993年。「Imax Tempozan, Osaka」1998年。そしてヨーロッパと日本へ。2013年のフィレンツェの「Cinema Odeon」とパリのパレ・ド・トーキョー、2014年のサン・ジミニャーノの「Cinema Teatro Nuovo」、2017年の東京の草月ホール。
すべて白黒のゼラチン・シルバー・プリントで、20×24インチでマウントされ、エディションは各25部。方法は40年間変わっていない。変わるのは部屋だけ。そして映画そのものに照らされた部屋が、それぞれの写真の本当の主題になる。
すべての瞬間の総和
映画は、何万ものコマの連なりだ。それぞれに固有の明暗がある。「Theaters」は、そのすべてをひとつの表面に足し合わせる。結果は特定の映画ではなく、すべての映画に共通するもの。通り過ぎる光だ。
それは杉本がキャリアを通じて立ち返る、時間についての問いだ。写真はふつう、瞬間をとらえるものと理解されている。杉本はその逆を行う。カメラに長く見させすぎる。あまりに長く、すべての瞬間が重なり合い、互いを消してしまうほどに。残るのは一瞬ではない。一枚の像に圧縮された、時間の広がりだ。
見る人は、これらの写真の前で、奇妙な静けさを感じることが多い。映画館は騒がしい場所だ。音楽、台詞、人々。写真は音を残さない。残すのは光だけ。そしてその真っ白な光は、何も語らない。
このシリーズは、杉本がニューヨークに来たばかりの若い写真家だったころ、「Dioramas」とほぼ同時に始まった。どちらも同じことを問う。人間の目には見えず、カメラには見えるものとは何か。