エッセイ · 写真
杉本博司(Hiroshi Sugimoto)「Opticks」
Hiroshi Sugimoto. Opticks.
色は、別の色になろうとするところで、もっともその色らしい。
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光の色を撮る
「Opticks」は、杉本博司が2018年に発表しはじめたシリーズだ。画面には物も、風景も、人もない。あるのは、互いにやわらかく移り変わる濃密な色の場だけ。写真の表面そのものが、光でできているかのように。
彼はそれを東京のスタジオでつくった。太陽光がプリズムを通り、スペクトルに分かれる。杉本はそのスペクトルを、細かく角度を調整できる傾斜機構つきの鏡に向け、暗くした部屋に投影する。鏡を少しずつ回すことで、スペクトルの一部だけを取り出すことができる。
色はポラロイド・フィルムに記録される。小さなポラロイドは、その後約152×152cmのカラープリントに引き伸ばされる。それぞれに「Opticks 053」や「Opticks 216」のような番号がつき、ほとんどが一点のみのプリントとして存在する。
フレンケル・ギャラリーによれば、杉本は色相と色相のあいだの隙間と移行に、特に注意を払った。だから一枚の画面が一色であることはまれだ。たいていは、二つの色のあいだの道のりだ。
ニュートン、ゲーテ、そしてプリズム
タイトルは、18世紀初めに刊行されたアイザック・ニュートンの光についての書物『Opticks』からきている。ニュートンはプリズムを使い、白い光が多くの色の総和であることを示した。彼にとって色は、測り、秩序づけることのできる物理現象だった。
およそ1世紀後、ゲーテは『色彩論』を書き、その見方に異を唱えた。ゲーテにとって色は、人間の目が知覚するものでもあり、感情に作用するものだった。
杉本は二人のあいだに立つ。器具、鏡、暗室を使い、ニュートンのプリズム実験を正確に再演する。けれどもプリントに残すのは、ゲーテが関心を寄せたもの、見る人に作用するものとしての色だ。色は物理であり、感覚でもある。「Opticks」は、どちらかを選ぶよう求めない。
澄んだ朝を待つ
作品は本物の太陽光に頼るので、空に左右される。杉本は、空気がもっとも乾き、澄んでいる冬、日の出前に仕事を始めたと語っている。
晴れそうな日には、明るみはじめた地平線の右上に、明けの明星を探した。金星の輝きの強さが、その日の空気の澄み具合を教えた。そうして初めて古いポラロイド・カメラを取り出し、冷えた夜のあとのフィルムパックを温めた。
この細部は、シリーズがどれほどゆっくりしたものかを示している。ひとりの美術家が、仕事をするかどうかを決める前に、星で空気の透明さを測る。「Opticks」は、一度シャッターを押した結果ではない。うまくいった朝も、いかなかった朝も含めた、多くの朝の待機から生まれる。
物のない光
写真の歴史の大半で、光は手段だった。物に当たり、それを見えるようにする。「Opticks」では、光が当たるべきものが何も残っていない。光が主題になる。
杉本は何度もこの縁で仕事をしてきた。ほかのシリーズでも細部を削ぎ落とし、基本的な条件だけを残す。光、時間、感光する表面。「Opticks」はさらに一歩進む。ここでは形さえ、ほとんど消えている。
「Opticks」は、電気を直接フィルムに放電してつくったシリーズ「Lightning Fields」と並べることができる。一方は、一瞬に閃くエネルギー。もう一方は、多くの朝をかけて待たれた太陽光。どちらも、レンズの前に物を必要としない。
大きな「Opticks」のプリントの前に立つと、見る人には、認識するものも読むものもない。あるのは色だけで、目は色が変わる場所を探しに行く。ゆっくり見るための練習だ。