エッセイ · 写真

杉本博司(Hiroshi Sugimoto)「Seascapes」

Hiroshi Sugimoto. Seascapes.

海は、最初の人類と私たちがいまも共有する眺め。

杉本博司「Seascapes」:白黒写真、水平線が画面を空と海に分ける

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ひとつの構図、たくさんの海

杉本博司は1980年ごろに「Seascapes」を始め、いまも続けている。40年以上、世界中の海や大きな湖を訪れ、ひとつのものを撮ってきた。水と空が出会う水平線。

規則は厳しい。水平線はくっきりしていなければならない。空に雲があってはならない。画面はほぼ正確に半分に分かれ、上が空、下が水。岸も、船も、鳥もない。目がつかまるものは何もない。プリントは白黒のゼラチン・シルバー・プリントで、20×24インチでマウントされ、エディションは各25部。

タイトルはそれぞれ、水域と場所の名を記す。「Yellow Sea, Cheju, 1992」。「Ionian Sea, Santa Cesarea, 1993」。「North Pacific Ocean, Stinson Beach, 1994」。「Sea of Japan, Rishiri Island, 1996」。「Bass Strait, Table Cape, 1997」。「Lake Superior, Cascade River」、1995年と2003年。「Bay of Sagami, Enoura, 2022」。

リストを読めば、距離は途方もない。韓国、イタリア、カリフォルニア、日本、オーストラリア、北アメリカ。写真を見れば、ほとんど見分けがつかない。その同じさこそが、このシリーズの主題だ。

時間のしるしを消す

風景写真はふつう、多くの手がかりを含んでいる。船の形は時代を語る。岸の建物は文化を語る。雲は天気、季節、時刻を語る。杉本はそのすべてを取り除く。残るのは、何年のものとも定められない光景だ。

杉本は、海を見ると思いが人間の意識の起源へとさかのぼること、そして海が、自分の血にはいまも何十万年もの進化の痕跡が流れていると思い出させることを書いている。その思いが、現在に属するものをすべて取り除く必要を説明する。彼が撮りたいのは、1994年の浜辺ではない。岸辺に立つ初期の人類もまた見たかもしれない眺めだ。

岩は変わり、海岸は削られ、都市は興っては消える。けれども、何もない空の下の平らな水面は、十分に遠くから見れば、とても長い世紀をこえて、ほとんど同じに見えるはずだ。「Seascapes」は、見る人をまさにそこに置く。海を見ている誰か。ほかには何もない。

だから「Seascapes」の一枚の前で、人は思っていたより長く黙ったままでいることが多い。読むものも、探す細部もない。目は水平線を左から右へたどり、止まる。見ることが遅くなる。誰もいない浜辺に長く座ったあと、呼吸が遅くなるように。

実践としての反復

杉本は1948年に東京で生まれ、長年ニューヨークで暮らした。彼はシリーズで仕事をし、その多くは数十年にわたる。映画館、博物館のジオラマ、建築。けれども反復がもっともよく見えるのは、おそらく「Seascapes」だ。

なぜ同じ写真を、これほど何度も撮るのか。毎回が違うからだ。水面がガラスのように平らな日もあれば、細かく波立つ日もある。真っ白な空もあれば、深い灰色の空もある。水平線が刃のように鋭いものもあれば、霞に溶けるものもある。ほかのすべてを固定したときにだけ、見る人はこうした小さな違いを見ることができる。

リストの最後のタイトル「Bay of Sagami, Enoura」には、特別な重みがある。江之浦は、杉本が小田原近くに、相模湾を望むアートの場、江之浦測候所を建てた場所だ。世界の海を40年旅したあと、彼は、自分が生涯をかけて撮ってきたまさにその眺めを、ほかの人が立って見られる場所をつくった。

同じ精神で、杉本は「Theaters」でカメラを使い、映画一本を一枚の像に圧縮する。「Seascapes」ではその逆を行う。一枚の像を使い、歴史より長い時間の広がりを開く。