エッセイ · 写真

杉本博司(Hiroshi Sugimoto)。「Dioramas」。

Hiroshi Sugimoto. Dioramas.

片目を閉じれば、偽物が生きはじめる。

杉本博司「Dioramas」:博物館の生息環境ジオラマの白黒写真。描かれた風景の前に剥製の動物

Fraenkel Gallery · Fraenkel Gallery



ニューヨークの新参者

1974年、杉本博司はニューヨークに着いた。1948年東京生まれ、二十代半ばだった。新しい街で最初に訪れた場所のひとつが、アメリカ自然史博物館である。

そこで彼はジオラマの展示室を見つけた。ガラスの向こうの生息環境の情景。風景を描いた湾曲した壁の前に、作り物の植物に囲まれて剥製の動物が置かれている。アフリカや北極まで旅しなくても、来場者が環境の中の動物を見られるようにつくられていた。

杉本はあることに気づいた。ふつうに見ると、ジオラマはまったくの偽物に見えた。照明は不自然で、動物はこわばり、本物の地面と描かれた背景の継ぎ目が見えた。だが片目を閉じると、情景は突然本物になった。両目の奥行きがなければ、脳は立体の動物と背後の平らな風景を分けられなくなる。

カメラの目はひとつ

カメラもまた、ひとつの目で見る。杉本は、カメラのように世界を見る方法を見つけたと悟った。彼の言葉では、被写体がどれほど偽物でも、ひとたび撮られれば本物と変わらない。

「Dioramas」のシリーズはその考えから育った。彼はガラスの前にカメラを据え、白黒のゼラチン・シルバー・プリントに焼いた。色がなければ、作り物を暴く手がかりも薄れる。褪せた毛皮、明るすぎる背景画。白黒ではすべてがひとつの灰色の階調に溶け合う。

結果は野生で撮られた写真のように見える。「Nyala」「Mountain Lion」「Galapagos」「Double Wattled Cassowary」「Mandrill」、いずれも1980年。動物は画面の中に立ち、ときにまっすぐこちらを見、ときに身をかがめる。画面の中の何も、博物館だとは告げない。シリーズという文脈だけが、見る人にそれを知らせる。

シリーズは動物だけではない。1980年の「Pennsylvanian Bay」と1992年の「Ordovician Period」は太古の海の模型で、撮る人など誰も存在しなかった何億年も前の時代を再構成している。1994年の「Neanderthal」は先史時代の人類の模型を写す。ここでは本物と偽物の問いはいっそう鋭い。比べるべき元の情景がないのだから。

博物館もまた写真である

「Dioramas」はしばしば写真をめぐる巧みな冗談として読まれる。だがそれは博物館そのものについても語っている。生息環境のジオラマは、博物館が世界を表すひとつのやり方だ。ある瞬間を選び、枠に収め、ガラスの向こうに置き、照らす。それはまさに写真がすることである。

杉本は、すでに立体の写真であるものを撮る。表象の二つの層が重なり、その結果は、どちらの層ひとつよりも現実の感覚に近づく。それは見る人に問わせる。ただ正しく枠に収められていたというだけで、自分はいくつの像を信じてきたのか。

ひとつの小さな細部は考えるに値する。ジオラマの動物たちは、かつて生きていた。狩られ、皮を剥がれ、詰め物をされ、つくり手の選んだ姿勢に置かれた。その死は本物で、情景の中の生は演出である。杉本の写真は、それを語ることなく、ひとつの画面に両方を収めている。

彼はこのシリーズを何年も続けた。「California Condor」「Lion」「Gorilla」はいずれも1994年の作。「Dioramas」はまた、杉本の最初期のシリーズ、映画館から「Seascapes」まで、その後のすべてへの入口ともみなされる。海の写真で彼は、どの時代にも変わらない眺めを探す。ここでは、決して変わらないように見えるよう組まれた情景を撮る。二つのシリーズは、時間と本物をめぐるひとつの問いの両側に立っている。