エッセイ · 嗅覚アート
ジェイ・マーリン(Jay Muhlin)。「Kid」。
Jay Muhlin. Kid.
中立な写真はない。匂う部屋のなかでは、なおさら。
撮影:Deborah Krieger for Hyperallergic · Hyperallergic
子ども、猫
2018年1月、フィラデルフィアのアーティスト・ラン・スペース、ヴォックス・ポプリ(Vox Populi)が、ジェイ・マーリンのシリーズ「Kid」を展示した。展示は1月21日まで続いた。
主な登場人物は幼い少女だ。マーリンは彼女を娘とは呼ばない。育てるのを手伝っている幼い少女、と言う。小さな言い回しだが、それは写真家を独特の位置に置く。子どもの日常の一部になるほど近く、それでいて親とは言いきれない。
写真は季節をめぐって彼女を追う。庭で遊ぶ。仮装をする。プラスチックの吸血鬼の牙をつけてレンズに顔をしかめる。雪のなかに寝転ぶ。白い背景の前で指輪をはめ、肖像写真の撮影のようにポーズをとる。一匹の猫が何度も現れる。紹介のいらない脇役だ。
一枚は猫だけを写している。本の山の上に座る猫。それらの本の題名が曖昧さをほのめかし、見る者はその写真がシリーズそのものについて語っていると気づく。
花の匂う部屋
「Kid」は壁の写真だけではない。ヴォックス・ポプリはこれを、動く部分、触れるためにつくられた写真、そして香りをもつミクストメディアのインスタレーションと説明する。部屋に入った人は、最初のプリントをよく見る前に、花と森の匂いを嗅ぐ。
Hyperallergic に寄稿した批評家デボラ・クリーガーは、まさにこの点で立ち止まる。写真はふつう、一種の記録として信頼される。カメラが場面の前に置かれ、場面がフィルムやセンサーに移る。香りは逆にはたらく。主観的で、まっすぐ感情に向かい、理性が割って入る前にそうする。
クリーガーの読みでは、心地よい花の匂いが、見る者を肯定的な解釈へ押しやるかもしれない。吸血鬼の牙の写真、しかめた顔の写真、冷たい雪の写真も、香る部屋に並べば、子ども時代の入り混じった瞬間としてではなく、甘い思い出として見られやすい。
それは不満というほどのものではない。二つの感覚がどう協働するかについての観察だ。目は写真を信じる。鼻は、目がどちらの向きに信じるべきかを決める。
記録するだけでなく、讃える
クリーガーは「Kid」を、子ども時代を記録するよりも讃える身振りとして読む。マーリンは客観的なふりをしない。子ども時代が短いことを知っている。写真の少女が成長し、誰にも予測できない大人の未来へ向かうことを知っている。写真は過ぎたものを留め、香る部屋はそれが大切だったと言い張る。
こう見ると、香りは展示の仕掛けではない。告白である。写真家は外側に立っていない。彼は子どもを気にかけ、その思いを空気に広げる。カメラが冷たい目であるふりをする代わりに。
残る問いは見る者のものだ。香りが写真をやわらげられるなら、私たちが中立とみなす写真、新聞の写真や家族のアルバムの写真は、どんな匂いとともに読まれているのか。アルバムをめくるときの台所の匂い。古い紙の匂い。気づかない部屋の匂い。
写真がそれだけで立っていたことはない。芸術としての写真についての Penta のエッセイが指摘するように、写真はいつも文脈のなかで読まれる。「Kid」はその文脈に匂いを与えるだけだ。だから私たちは、それがそこにあることを忘れられなくなる。