エッセイ · 嗅覚アート
ペーター・デ・クーペレ「Is This Mankind?」
Peter de Cupere. Is This Mankind?
髪は、その人の匂いを留める。
撮影:We Document Art、2016年 · Peter de Cupere(公式サイト)
トゥルンハウトでの展覧会
2016年9月9日から2017年1月22日まで、ベルギー北部アントワープ州の小さな街トゥルンハウトのアートセンター、デ・ワランデで、ピーター・デ・クーペレの個展が開かれた。オランダ語の題は「Eens was ik een mens」、かつて私は人間だった。英語の題は問いである。「Is This Mankind?」。
デ・クーペレは、おもに匂いで制作するベルギーの作家だ。煙の雲をつくり、色のない、匂いだけの絵を描き、香りのアルファベットを編んだ。そうした作品はしばしば、来場者を自分の鼻に驚かせる。
デ・ワランデでは方向が違った。主な素材は美しい匂いでも奇妙な匂いでもない。特定の人々の、その身体に起きたことと結びついた嗅覚の記憶だった。
展覧会は三つの嗅覚の空間を軸に組まれた。どれも歩いて入り、息をする部屋だった。来場者が持ち帰ったのは像ではなく、出口でまだ鼻に残る匂いだった。
剃られた頭
最初の空間は、ひとつの具体的な出来事をめぐっていた。意に反して頭を剃られること、髪を切られること。
デ・クーペレはふたつの集団の証言に拠った。ひとつはアウシュヴィッツの生存者。到着すると、囚人たちは衛生を口実に頭を剃られた。実際には辱めであり、最初の日から人の見慣れたかたちを剥ぎ取るものだった。
もうひとつの集団はがん患者だった。彼らは、自分を生かしているまさにその治療の副作用で髪を失った。誰も強いてはいない。けれど彼ら自身が選んだのでもない。
ふたつの物語は数十年を隔て、意味はほとんど正反対だ。ひとつは暴力、もうひとつは希望。デ・クーペレはその違いをならさない。ただ、両者が通り過ぎるひとつの瞬間を指し示す。鏡をのぞき、見知らぬ顔を見つける瞬間。
香りは、香り素材の大手企業 IFF の研究所の協力を得て開発された。ふだん消費財のための匂いをつくる人々が、喪失についての作品に技を貸した。小さな細部だが、匂いをつくる職人の技が、売るためだけでなく記憶のためにも働きうることを示している。
髪の森
展覧会には髪の森もあった。およそ21,000房の人毛。ひとつひとつが固有の香りをもち、ひとつひとつが特定の人の身元と結びついていた。
その数は思い描きにくい。一房は小さく、手のひらに収まるほど軽い。何千も集まると、ひとつの塊になる。顔のない群衆のように。
髪は長く匂いを留める。子どもを抱いたことのある人、誰かの枕で眠ったことのある人なら知っている。だから固有の香りをもつ一房は、展示物であることをやめる。不在の人になる。
ここで匂いは、肖像写真にはむずかしいことをする。写真は距離をおいて顔を見せる。匂いは近くに立たせる。生きた身体のそばに立つのと同じくらい近くに。
なぜこの展覧会は残るのか
2017年、「Is This Mankind?」は、香りによる実験的な作品に贈られる Art and Olfaction Awards のサダキチ賞の最終候補となった。会期中、デ・クーペレの著書「Scent in Context: Olfactory Art」もデ・ワランデで手に入った。
多くの香りの作品は驚きで止まる。思いがけない匂い、香りの漂う暗い部屋。「Is This Mankind?」は別の場所へ行く。かたちと身元の一部を奪われた人々の証言を、匂いを使って留める。
匂いは出来事を語れない。日付も、地名も、数字もない。けれど身体の近さを留める。だからデ・クーペレは髪を選んだのかもしれない。人に属し、人から離れることもできるもの。
題名は問いであり、展覧会は来場者のかわりにそれに答えない。房のあいだに来場者を置き、息をさせる。