エッセイ · 現代アート
ジュリアン・ローゼフェルト(Julian Rosefeldt)「Manifesto」
Julian Rosefeldt. Manifesto.
古い言葉、新しい部屋。意味は部屋とともにずれる。
Staatliche Museen zu Berlin (Hamburger Bahnhof) · Staatliche Museen zu Berlin (Hamburger Bahnhof)
十三のスクリーン、ひとりの人
「Manifesto」は、ドイツの作家ジュリアン・ローゼフェルトによる映像インスタレーションで、2015年に完成した。展示室では、十三本の映像が十三のスクリーンで並行して流れる。来場者はそのあいだを歩き、ひとつの前で立ち止まり、別のスクリーンからの声に引き離される。
十三本すべてに、ひとりの演者が出る。ケイト・ブランシェット(Cate Blanchett)。彼女は自分自身を演じない。まったく異なる人々になる。教師。人形遣い。ブローカー。葬儀で弔辞を述べる人。ホームレスの男。
どの人物も長い独白を語る。けれどその言葉は、ふつうの映画の台詞ではない。20世紀の芸術宣言から来ている。
2016年2月から11月まで、作品はベルリンの現代美術館ハンブルガー・バーンホフで展示された。会期ははじめ9月までの予定で、のちに延長された。
宣言を切り、つなぐ
ローゼフェルトは膨大な文章を読み直した。マリネッティの未来派宣言。トリスタン・ツァラのダダ宣言。スプレマティスムについてのマレーヴィチ。アンドレ・ブルトンのシュルレアリスム宣言。それからのちの声。クレス・オルデンバーグ、イヴォンヌ・レイナー、スターテヴァント、エイドリアン・パイパー、ソル・ルウィット、映画監督のジム・ジャームッシュまで。
彼はそれらを歴史の順に組み直しはしなかった。切り詰め、何人もの書き手の一節をつなぎ、十三の新しい独白を書いた。どれも多くの声の混ざりもので、ひとつの口から語られる。
それから演出。衣装、化粧、場所。どの独白も、現代の暮らしの一場面のなかに置かれた。かつて芸術家のカフェで叫ばれ、新聞に刷られた言葉が、いまはごくありふれた場所で響く。
作品は複数の機関が共同で制作した。メルボルンの Australian Centre for the Moving Image、シドニーの Art Gallery of New South Wales、ハノーファーの Sprengel Museum、Ruhrtriennale、そして放送局の Bayerischer Rundfunk。
小さな場所の大きな言葉
「Manifesto」でもっとも興味深いのは、そのずれである。宣言は、壊し、驚かせ、奮い立たせるために書かれる。それを教室の前の教師や、墓のそばの人が語ると、おかしくもあり、奇妙にも響く。
ときにそのずれは言葉を空にする。かつて燃えていた文が、いまはスローガンのように聞こえる。ときに、ありふれた舞台がかえって言葉を鋭くする。見る人は不意に、古びたと思っていた考えが今も正しく、今も痛むと気づく。
ブランシェットは両方の可能性を抱える。文章をあざけらない。一人ひとりの声で、まじめに語る。そのまじめさが、何を聞いているのかを見る人が自分で決める余地を残す。
この方法は、ほかの映像作家が用いてきたものに近い。既存の言葉をとり、切り、組み直す。オメル・ファストはかつてCNN のキャスターが発した単語をひとつずつつなぎ、新しい独白にした。ローゼフェルトは美術史に同じようなことをしながら、もとの一文一文の重みを保っている。
なぜ記憶する価値があるのか
「Manifesto」は美術史の講義ではない。ダダも未来派も説明しない。書き手たちが想像もできなかった身体と部屋のなかで、言葉をふたたび生きさせる。
その問いは単純だ。舞台が失われても、考えはそれ自身でありつづけるのか。宣言の書き手たちは、自分の言葉が普遍だと信じていた。ローゼフェルトはそれを、まったく違う世界で試す。
結果はひとつの答えではない。持ちこたえる古い言葉もある。崩れる言葉もある。見る人は十三のスクリーンのあいだを歩き、耳を傾ける。
この作品は、そもそも芸術をつくることについての作品でもある。どの宣言も新しいものを約束する。並べて読むと、ある世代の新しさが次の世代の古さになるさまが見える。言葉が言葉に続く。順に立ち上がって言う人々の長い列。これこそが本当の芸術だ、と。