エッセイ · 写真
ラリー・サルタン(Larry Sultan)。「Pictures from Home」。
Larry Sultan. Pictures from Home.
家族写真は、全員が語ることに同意した物語。
© Estate of Larry Sultan · SFMOMA
息子が帰る
1980年代初め、ラリー・サルタンは一見単純なプロジェクトを始めた。両親を撮ることだ。両親は南カリフォルニアに住んでいた。はじめはロサンゼルス郊外、のちにパームスプリングス近くの家。サルタンはカメラを手に、カリフォルニアの海岸を行き来し、そのたびに数日滞在した。
プロジェクトは1983年から1992年まで続いた。それはシリーズ「Pictures from Home」となり、1992年に同名の本として刊行された。本の中では、サルタンの大判のカラー写真が、古いホームムービーのスチル、会話の断片、彼自身の文章、家族の記念品と並ぶ。
主題は両親と、郊外の家でのアメリカン・ドリームの追求。芝生、プール、絨毯敷きの居間、テレビ。より深い主題は、家族写真そのもの。家族が写真で自らをどう語るか、そしてフレームの外に何が残されるか。
母がポーズをとる
サンフランシスコ近代美術館(SFMOMA)は、このシリーズから1点を所蔵している。「My Mother Posing for Me」(1984年)、約72×87センチのクロモジェニック・プリント。
題名がほとんどすべてを語る。母が息子のためにポーズをとっている。捉えられた瞬間ではなく、整えられた瞬間。そしてふたりともそれを知っている。写真はふたつのことを同時に記録する。自分の家にいるひとりの女性と、レンズの前での彼女の自意識。
サルタンは演出を隠さなかった。両親との仕事を、現実と虚構、私と公のあいだの線を崩す方法だと語っている。彼の写真はそのあいだに立つ。記録とも言い切れず、芝居とも言い切れない。
一見すると、ふつうの家族が写っている。見つめるほどに、不穏さが現れる。少しこわばって置かれた手。逸れていく視線。並んで立つふたりのあいだの隙間。本当の物語は、こうした小さな細部を通っていく。
ふたつの時間の層
「Pictures from Home」でもっとも印象的なのは、ホームムービーのスチルだ。撮られたのは子どもたちが小さかったころ。誕生日、休日、庭の午後。みながカメラに笑いかける。すべてが明るい。
そのコマの隣で、数十年後にサルタンが撮った写真は別の調子を帯びる。両親は年を重ねた。家は静かになった。退職した父は、かつてなく家にいる時間が増え、それをどう使えばよいのかわからずにいるように見える。
ふたつの層は対話する。ホームムービーは、家族が自らについて語りたかった物語。サルタンの写真は、帰ってきた息子が見る物語。どちらも単純に真実ではない。どちらも構築されたもの。
そして第三の層がある。両親自身の声だ。本の中で両親は息子の写真に言葉を添え、自分たちの写され方をいつも気に入っているわけではない。作品はその食い違いを残す。両親の肖像というより、誰が物語を語るのかをめぐる会話の記録だ。
このアルバムが大切な理由
家族写真はふつう、私的でアマチュアのもの、美術館のものではないと見なされる。サルタンはまさにその素材を取り上げ、それがどれほど複雑かを示した。どの家族アルバムも小さな神話だ。何を撮ると選び、何を忘れると選んだかでできている。
それ以前に、サルタンはマイク・マンデル(Mike Mandel)とともに「Evidence」をつくっていた。科学機関や警察のアーカイブ写真を集め、キャプションなしで示した本だ。ふたつのプロジェクトは逆方向に進む。「Evidence」は見知らぬ人々の写真を取り上げ、謎めいたものにする。「Pictures from Home」はもっとも近しい人々を取り上げ、見慣れないものにする。どちらも、写真が本当に証明するものは何かを問う。
「Pictures from Home」は確かな答えを出さない。写真が証明するのは、ある午後、カリフォルニアの居間で、ひとりの母が息子のためにじっと立っていたということ。残りは見る人が埋める。