エッセイ · 写真
マイク・マンデル(Mike Mandel)とラリー・サルタン(Larry Sultan)。「Evidence」。
Mike Mandel and Larry Sultan. Evidence.
キャプションを外せば、証拠は問いになる。
© Mike Mandel と Estate of Larry Sultan · SFMOMA
アーカイブの中の二人
1970年代半ば、カリフォルニアの二人の若い写真家、マイク・マンデルとラリー・サルタンは、アメリカ各地の政府機関、大学、企業の長いリストに当たりはじめた。写真ファイルを見せてほしいと頼んだのだ。芸術写真ではない。仕事の写真である。実験や現場、機械の試験を記録するために撮られた像。
二人がたどり着いた場所は、当時の技術大国アメリカの地図のように読める。ジェット推進研究所、サンノゼ市警察、アメリカ合衆国内務省、ジェネラル・アトミック社、そのほか多くの研究所と企業。二人は膨大な量の像を、箱ごとに、ファイルごとに見ていった。
その中から59枚を選んだ。1977年、その59枚は写真集「Evidence」となり、同じ年にサンフランシスコ近代美術館で展示された。SFMOMA はのちにこのプロジェクトのプリントを収蔵した。8×10インチのゼラチン・シルバー・プリントを含み、1993年にコレクションに加わった。
キャプションはひとつもない
マンデルとサルタンのもっとも重要な決断は、引き算だった。キャプションをすべて外したのだ。出所も、日付も、目的もない。読者はページをめくり、写真だけを見る。
そして写真は奇妙だ。作業着の人々が、用途の分からない装置の横に立っている。物が妙な位置に置かれている。人のいない屋外の風景に、推し量れない何かの介入の跡が残っている。どれも元のファイルでは平凡な説明をもっていた。ファイルから取り出されると、夢の場面のように、あるいは言葉のない芝居のように見える。
ここに「Evidence」の強さがある。これらの像は厳密に客観的であるために撮られた。撮った人は構図も感情も考えていない。記録することだけを考えていた。だが文脈から外されると、その客観性こそがもっともシュルレアリスム的な効果を生む。
並べ方も効いている。マンデルとサルタンは、存在しないつながりをほのめかすように写真を配置した。左ページの機械が、右ページの人を見つめているように見える。読者は物語がないと知りながら、物語を組み立てはじめる。
何の証拠か
題名には小さな皮肉がある。証拠とは、何か特定のことを証明するはずのものだ。ここでは、証明するはずだったものを失っている。証明するのは、誰かがどこかで、ある光景の前に立ち、シャッターを押したということだけだ。
こうしてこの作品は、写真について大きな問いを投げかける。写真の意味は像の中に宿るのか、それとも横に添えられた言葉の中に宿るのか。数行の文字を消すだけで記録が謎に変わるのなら、私たちが見ていると思っているものの多くは、実は告げられているものなのかもしれない。
「Evidence」はまた、1970年代の美術のより大きな流れにも属している。多くの作家が自ら撮るかわりに、ファウンド・フォトや既存の素材に向かった時代だ。作家はもはや、必ずしも像をつくる人ではない。すでにある像を選び、並べ、問い直す人でありうる。
この小さな本が今も記憶される理由
半世紀近くたった今も、「Evidence」はもっとも重要で、もっとも不可解な写真集のひとつとしてよく名を挙げられる。著者が撮った写真は一枚もなく、説明は一行もない。それでも、多くの人の記録写真の見方を変えた。
数年後、ラリー・サルタンはずっと身近なアーカイブに向かった。自分の両親のホームムービーとアルバムである。Pictures from Homeだ。「Evidence」は見知らぬ人々を謎にする。「Pictures from Home」は家族を見知らぬものにする。素材はこれ以上ないほど違うが、疑いは同じだ。写真はどれほど真実を語るのか。
「Evidence」は答えない。残すのは59の場面。そのひとつひとつが、紙に刷られた問いである。