エッセイ · 写真
サリー・マン「Immediate Family」。
Sally Mann. Immediate Family.
夏は過ぎ、写真は残る。
© Sally Mann · Aperture
三人の子どもと一本の川
1984年から1992年にかけて、サリー・マンは三人の子ども、エメット、ジェシー、ヴァージニアを撮影した。子どもたちはバージニア州レキシントンで育ち、夏はシェナンドー渓谷にある一家の農場で過ごした。川のそばに小屋があった。
そこでの夏は、よそ者には何の変哲もないものだった。川で泳ぐ。熱い岩に寝そべる。午後の昼寝。暗くなるのを待つ。けれどマンは、並外れた辛抱強さでその日々を見ていた。彼女はそこにいた。カメラを手に、毎年毎年。
1992年、Aperture はこれらの写真のうち60点を「Immediate Family」という本として刊行した。題名は、最も近い親族を指す英語の日常的な言い回し。同時に immediate のもうひとつの意味、直接の、媒介のない、という意味も帯びている。これらの写真には、撮る者と撮られる者のあいだに礼儀正しい距離がない。
遅いカメラ
マンは主に、8 x 10インチのフィルムを使う大判カメラで撮影した。三脚に据え、暗幕の下でピントを合わせる重いカメラである。フィルム一枚ごとに長い準備が要る。スナップはない。すばやい連写もない。
それは、子どもたちがじっとしていなければならないことを意味した。偶然とらえたように見える瞬間の多くは、実は演出され、繰り返され、待たれたものだった。子どもたちは被写体であるだけでなく協働者でもあった。カメラを意識し、ときには自分からポーズを提案した。
大判フィルムは並外れた細部を与える。髪の一本一本、肌についた砂の一粒一粒、シーツのしわのひとつひとつまで見える。その鮮明さこそが、写真を美しくも居心地悪くもしている。見る者を安心させるために和らげられたものは何もない。
カリブ海で制作中に書かれ、1995年に Aperture 誌に掲載された手紙のなかで、マンは湿気が新しいフィルムの約半分を駄目にしたことを書いている。貼りついたネガを剥がしたときの静電気が残した、奇妙な星のような跡についても。彼女はそれを不運な事故として扱わなかった。素材そのものが写真に残したものに関心を寄せた。
夕暮れの光
その手紙でマンは、まず写真を思い描いてからそれを探すことを、しだいにやめていったと説明している。背景を探した。地面の一角、川のひと続き。そしてそこに写真が現れるにまかせた。子どもたちは風景のなかへ退いていった。
彼女はまた、一日の境目の時間についても書いた。夜の直前の、謎めいた時間。「Immediate Family」の多くの写真はその光を帯びている。温かいが消えかけていて、澄んでいるがすでにやわらぎはじめている光。
マンが一度ならず立ち返った考えがある。どんなものも、朽ちることに触れられるまでは最も美しくはならない。だから彼女の写真は、フィルムの傷や暗い隅や飛んだハイライトを避けない。そこにある子ども時代は、単純な意味で無垢ではない。過ぎ去ることを、すでに知っている。
落ち着かなかった一冊
「Immediate Family」は出版されるとすぐに論争を呼んだ。人里離れた場所の夏に子どもがよくそうであるように、裸のマンの子どもたちを写した写真があったからだ。こうした写真は決して出版されるべきではなかったと主張する者もいた。これまでに撮られたなかで最も正直な子ども時代の記録を見る者もいた。
論争は何年も続き、マン自身ものちに回想録「Hold Still」でそれについて書いた。議論の下には、否定する人の少ないことがある。これは、愛と不安の両方をもって子どもたちを見つめ、そのどちらも隠さない母親の眼差しだということ。
30年が過ぎても、この本はまだ版を重ね、マンの写真は主要な美術館に掛けられている。ほかの作家たちも、権力、記憶、場所を問う方法として自分の家族を撮りつづけている。たとえばラトーヤ・ルビー・フレイジャーの「The Notion of Family」。
「Immediate Family」は結末のある物語を語らない。過ぎ去った八度の夏を記録している。写真のなかの人々は大人になった。けれど銀のなかでは、いまも川のそばにいる。