エッセイ · 写真

ニューシャ・タヴァコリアン(Newsha Tavakolian)。「Blank Pages of an Iranian Photo Album」。

Newsha Tavakolian. Blank Pages of an Iranian Photo Album.

アルバムは過去をとどめるだけではない。まだ来ないもののために余白を残す。

ニューシャ・タヴァコリアン「Blank Pages of an Iranian Photo Album」。テヘランの若者たちのカラーの肖像

© Newsha Tavakolian · Magnum Photos



一つの世代のためのアルバム

ニューシャ・タヴァコリアンは1981年生まれのイランの写真家で、テヘランに暮らし、そこで仕事をしている。フォトジャーナリズムから出発し、しだいに報道と芸術のあいだにあるプロジェクトへ移っていった。マグナム・フォトのメンバーである。

2014年、彼女はカルミニャック・ジェスティオン・フォトジャーナリズム賞を受けた。その助成で「Blank Pages of an Iranian Photo Album」を制作した。1979年の革命によって形づくられた国に生きる、イランの中流層をめぐるプロジェクトである。

着想は、見慣れた物から始まった。家族の写真アルバムである。イランの多くの家庭でも、ほかの場所と同じく、アルバムは大切な節目をとどめる。誕生日、結婚式、休日。タヴァコリアンは、そのアルバムを、いまの暮らしへの自分のまなざしで書き継ぎたいと考えた。

彼女は少人数を選び、しばらく彼らを追い、私的な時間を撮った。一人ひとりの名前がキャプションに記されている。ソマイエ、ナザニン、マフド、サナズ、ビタ、シャブナム、シャヒン、そして娘ハディスと一緒のアリ。

二つの層のあいだの暮らし

写真に写るのは、ごくありふれたことだ。誕生日のパーティー。大学での休み時間。パソコンの画面の前に座る人。美容整形の施術を終えたばかりの人。テヘランの北、トチャール山への小旅行。カスピ海の岸辺での一日。広大なエクバタン団地の一室。

そのありふれたことの下に、もう一つの層がある。イランの暮らしは、人前で許されることと、扉の向こうで起きることに分かれている。若者たちはそのあいだを生きている。私的な願い、口にされないこと、日々の矛盾とともに。

タヴァコリアンはそれらを説明しない。顔に、部屋に、人と人との距離に、浮かび上がるにまかせる。被写体の多くは、何かを待っているように見える。何を待っているのか、写真は語らない。

題名はその感覚をとらえている。空白のページとは、まだ生きられていない、あるいはまだ許されていない暮らしの部分である。揺れ動く国で育った世代の、はっきりしない未来である。

変えられなかった題名

作品をめぐる経緯も重要だ。タヴァコリアンがシリーズを納めたあと、カルミニャック財団の創設者は、写真を自分で編集し、文章を書き直し、プロジェクトを「The Lost Generation」と改題しようとした。

タヴァコリアンは拒んだ。彼女にとってその題は使い古され、含みが重く、被写体が選んでもいないレッテルを貼るものだった。2015年、彼女は賞金を返し、賞を辞退し、財団との関係を断った。

この出来事は、作品の読まれ方を形づくる。二つの題は違うことを言う。「The Lost Generation」は判決だ。この人々は失われている、と。空白のページは開かれた問いだ。彼らの暮らしは、まだ書かれつつある。

タヴァコリアンは問いを守った。作品は彼女の選んだ題で写真集として出版され、広く展示されてきた。

なぜ残るのか

「Blank Pages of an Iranian Photo Album」は、ニュースのおなじみの映像を使わずに一つの国を描く方法を示す。抗議もなく、スローガンもない。若者たちと、部屋と、午後だけ。

サントゥ・モフォケンの「The Black Photo Album」と並べると、家族のアルバムが芸術の素材になりうることがわかる。モフォケンは古く忘れられた肖像を取り戻した。タヴァコリアンはその逆をする。まだ閉じられていないアルバムに、新しいページをつくる。

本当のアルバムは、いっぱいになることがない。いつももう一枚ページがあり、誰かがもう一日を加えるのを待っている。