エッセイ · 現代アート
グエン・チン・ティ(Nguyễn Trinh Thi)。「Letters from Panduranga」。
Nguyen Trinh Thi. Letters from Panduranga.
誰かを見る。その人の代わりに語らずに。
© Nguyen Trinh Thi · M+ Museum
二人、手紙の連なり
「Letters from Panduranga」は、グエン・チン・ティが2015年に完成させた35分のエッセイ映画である。カラー、音声あり、ベトナム語。物語の意味での登場人物はいない。二つの声があるだけだ。
一つは女性の声で、グエン・チン・ティ自身が演じる。彼女はニントゥアンにいる。もう一つは、ベトナム中部の風景を旅する男性の声。どちらにも名前はない。二人は互いに手紙を書き、その手紙が映画の糸になる。
二人は順を追って物語を語らない。考えや問いや、その日に見たものをやりとりする。ときに一通の手紙が前の手紙に答える。ときにまったく別のところへ行ってしまう。
手紙と並んで、映像が流れる。人々、寺院、開けた土地。いま誰がレンズ越しに見ているのか、観る人にはいつもはっきりしない。その不確かさも映画の一部である。
パーンドゥランガ、チャムの地
現在のニントゥアンは、かつてパーンドゥランガと呼ばれた。チャムの人々にとって、歴史的にも精神的にも重みのある地方である。チャムはベトナムの少数民族の共同体で、寺院や儀礼という固有の遺産をもち、今日の行政の境界よりはるかに古い記憶をもっている。
映画がつくられたのは、ベトナムがニントゥアンに二基の原子力発電所を建てる準備をしていたころだった。手紙はその計画を差し迫ったものとして、近くに残るチャムの遺跡への脅威として語る。宣言はない。ほかのことに混じって、静かに語られる不安だけ。
グエン・チン・ティは、チャムの人々を肖像のような長いショットで撮る。画面の中の人々はじっと立ち、こちらを見返す。カメラは急がない。人々をまるごとそこに在らせ、論のための図解に切り詰めない。
ミーソンのヒンドゥー寺院などの場所では、映像を二枚ずつ並べることもする。19世紀の写真家たちがつくったステレオ写真を思わせる。その種の映像は、外から来た者のまなざし、植民地の時代、記録し分類しようとする衝動に属している。それを映画の中に置くことで、彼女は観る人に、見ることそのものの歴史を示す。
他者を代弁することを避ける
おそらく映画の鍵となる一行は、女性のものだ。彼女は他者を代弁することを避けようとしている、と言う。それは、自分のものではない共同体の前でカメラを持つ人すべてが向き合う問いである。私にどんな権利があるのか。私は何を持ち去ろうとしているのか。
「Letters from Panduranga」は、その問いを解かない。35分のあいだ、開いたままにしておく。女性は撮影し、それから撮影を疑う手紙を書く。男性はさらに遠くへ旅し、より広く見るが、やはり外に立つことはできない。二人とも遅れてやって来た者で、縁に立っている。
エッセイ映画という形は、そのためらいを許す。ドキュメンタリーはふつう断言しなければならない。エッセイ映画は声に出して考え、まちがえ、引き返すことができる。グエン・チン・ティはその自由を使い、自らの力についての慎ましい映画をつくる。
現在、この映画は香港の M+ に所蔵され、パリのジュ・ド・ポームでも上映された。映像がどう歴史をつくるかを見つめ直すベトナムの作家たちの仕事の系譜に属している。ディン・Q・レの「From Vietnam to Hollywood」のように。けれど「Letters from Panduranga」の声は、より静かで、より私的だ。宣言よりも、手紙に近い。