エッセイ · 現代アート
ピピロッティ・リスト(Pipilotti Rist)。「Ever Is Over All」。
Pipilotti Rist. Ever Is Over All.
花にも重さがある。
Guggenheim Museum Bilbao · Guggenheim Museum Bilbao
隅で出会う二つの投影
「Ever Is Over All」は、ピピロッティ・リストが1997年に制作した二画面のビデオ・インスタレーションである。二つの大きな投影が、隅で交わる二つの壁に映され、その縁が重なり合う。
一方では、淡い青のドレスを着た女性が、駐車した車の並ぶ歩道を歩いている。まっすぐな茎に赤い頭をもつ長い花を持っている。微笑みながら、ぶらぶらと歩く。そして花を車の窓に振り下ろす。ガラスが砕ける。彼女は次の車へ歩き、また振り下ろす。
もう一方では、カメラが赤と緑の熱帯の花のあいだをゆっくりと漂う。近すぎて、花びらと茎が画面を埋める。人もいない、通りもない。色とスローモーションだけ。
二つの映像は同じ物語を語らない。だが並んでいる時間が長いので、見る人はそれらをつなぎはじめる。女性の手の花は隣の投影の花に似ている。まるでその武器が、あの花畑から摘まれてきたかのように。
遅い音、速い身振り
サウンドトラックはリストと音楽家アンダース・グギスベルク(Anders Guggisberg)によるもの。ゆるやかにされた、ハミングのような旋律で、子守唄に近い。ガラスが割れても変わらない。山場もなく、一撃を告げる劇的な合図もない。
そのずれこそが、作品を記憶に残す。目は破壊行為を見る。耳は穏やかなものを聴く。女性の顔は音の側にいる。落ち着いていて、ほとんど幸せそうだ。見る人は二つの信号のあいだで、心配すべきか微笑むべきかわからずにいる。
よく語られる場面がある。婦人警官が歩道で彼女とすれ違う。私たちは介入を待つ。ところが警官は彼女に挨拶し、そのまま歩いていく。通りの秩序は壊れない。ただ目をそらすだけだ。
作品はループする。彼女は歩き、打ち、また歩き、そして最初に戻る。その行為が説明される結末はない。
暴力とやさしさが隣り合う
リストはスイスに生まれた。1980年代の終わりから、彼女は飽和した色、重なる映像、音楽、そして中心に置かれた女性の身体によるビデオを作ってきた。「Ever Is Over All」はしばしばその系譜で読まれる。陽気で自由な女性が、公共の場で女性はどう振る舞うべきかという規則を踏み越えていく。その頃にはビデオはテレビ受像機を離れ、部屋全体を占めるようになっていた。1970年代、ナムジュン・パイクがテレビを生きた植物のあいだに置いたときに開いた方向である。
けれど作品は、はっきりしたメッセージを掲げない。彼女は怒っていない。理由も言わない。車は特定の誰かのものではない。その一撃は告発というより、解放に見える。
グッゲンハイム・ビルバオはこの作品を魔術的リアリズムの言葉で説明する。花が武器になり、そこからカタルシスと希望を同時にもつ身振りが生まれる。この読み方は両面を保つ。壊すことと解き放たれることが、同時に起きている。
作品の記録によれば、初公開は1997年のヴェネツィア・ビエンナーレ。ほぼ三十年後、グッゲンハイム・ビルバオは2026年1月から2027年1月まで、この作品のために一室を設けた。
なぜ残るのか
多くのビデオ作品は、見る人に座ること、解説を読むこと、背景を知ることを求める。この作品は求めない。数秒で足りる。青いドレス、赤い花、割れるガラス、微笑み。
それが残るのは、わかっているつもりだった二つのことを裏返すからだ。花はやさしい。車の窓は堅い。映像のなかでは花が勝つ。力によってではなく、誰も止めないから。
二つの投影が触れ合う隅で、花畑と通りはにじんで細い帯になる。作品がいちばん率直に語るのはそこだ。やさしさと暴力は反対側にあるのではない。ひとつの壁を分け合っている。