エッセイ · 現代アート
ラグナル・キャルタンソン(Ragnar Kjartansson)。「The Visitors」。
Ragnar Kjartansson. The Visitors.
部屋はそれぞれ一つの声を抱き、家は歌を抱く。
© Ragnar Kjartansson · SFMOMA
暗い部屋の九つのスクリーン
「The Visitors」は、ラグナル・キャルタンソンが2012年に制作した、音をともなう九チャンネルのビデオ・インスタレーション。長さは64分。九つの大きな投影が暗い部屋を囲み、それぞれが同じ家の別々の部屋にいる一人を映す。
家はロークビー。ニューヨーク州ハドソン・バレーにある古い屋敷である。何世代にもわたって一つの家族のもので、時の痕跡に満ちている。色褪せた壁紙、古い家具、少しひんやりとした広い部屋。
部屋ごとに一人の音楽家がいる。ピアノの前に一人。チェロを抱えて一人。ドラムの前に一人。キャルタンソン自身はギターを手に浴槽に座る。全員がヘッドフォンをつけ、互いの姿を見ずに音だけを聴く。そして一曲を、途切れのない一回のテイクで演奏する。
一曲を、何度も
曲は短い。歌詞は、キャルタンソンの元妻アウスディース・シフ・グンナルスドッティル(Ásdís Sif Gunnarsdóttir)の詩から来ている。くり返し戻ってくる一行がある。自分の柔らかな習慣に、またしても落ちていくことについて。自責と自己への赦しが同時に聞こえる。
一時間以上、彼らはその詩句を何度も何度も歌う。ときには一人の声、ほとんどささやき。ときには九人がいっせいに高まり、厚く、温かい。歌はどこへも向かわない。円を描き、その一周ごとに違う陰影がある。
タイトルは、ABBA の1981年のアルバム「The Visitors」から借りている。キャルタンソンはよく大衆音楽を使う。決まり文句になるほど聞き慣れた歌を、その決まり文句がすり減り、本物の悲しみが透けて見えるまでくり返す。くり返しが彼の方法だ。一行、一節、一場面を何時間も何日も演じ、最初の意味がすり減って別の何かが現れるまで続ける。
部屋から部屋へ歩く
展示室では、九つのスクリーンを一度に見られる人はいない。見る人は動かなければならない。ピアノの近くではピアノがいちばん大きい。別のスクリーンへ一歩寄れば、別の声が立ち上がる。一人ひとりが、自分のたどる道筋によって自分だけのミックスをつくる。
その聴き方は、ブルース・ナウマンの「Raw Materials」を思わせる。タービン・ホールを一歩進むごとに、聞こえる声が変わる作品だ。ただ「The Visitors」では、音は一つにまとまっている。それは一曲の歌であり、見る人は家の部屋を歩くようにそのなかを歩く。
64分すべてをとどまる人も多い。床に座る人もいる。泣く人もいる。物語という意味では、画面の上で何も起こらない。ただ友人たちが一緒に音楽を奏でているだけ。
友情と、去ること
音楽家の多くはキャルタンソンの長年の友人である。いくつかの画面では、ほかの人々がポーチに座って聴いている。客人のように。人でいっぱいの家であり、同時に一人ひとりが部屋のなかで独りでいる家でもある。
終わり近く、一人また一人と彼らは部屋を出る。集まり、歌いながら、一緒に芝生を横切って家から離れていく。部屋のカメラは回りつづける。部屋はもう空っぽで、音楽が遠くから漂ってくる。
2014年、SFMOMA と MoMA がこの作品を共同で収蔵し、所有を分かち合っている。作品は名づけにくい感情を残す。友人たちへの喜び、彼らが去ると知る悲しみ。そして部屋についての何か。人が去ったあとも部屋はそこにあり、まだ少しだけ彼らの空気を抱いている。