エッセイ · 写真

川内倫子(Rinko Kawauchi)「Utatane」

Rinko Kawauchi. Utatane.

眠りと目覚めのあいだでは、まだ何にも名前がない。

川内倫子、「Utatane」より無題。ほぼ正方形のカラープリント、淡い光のなかの日常の細部

© Rinko Kawauchi · SFMOMA



同時に三冊

2001年、川内倫子は最初の本を三冊同時に出した。「Utatane」「Hanabi」「Hanako」。まだ三十歳になっていなかった。若い写真家が三冊をまとめて携えて登場するのは珍しく、すぐに注目を集めた。

翌2002年、川内は「Utatane」と「Hanabi」で第27回木村伊兵衛写真賞を受けた。日本の重要な写真家の名を冠したこの賞は、日本でこの分野の新人が得る最初の大きな評価とみなされることが多い。川内にとってそれは、以来二十五冊を超える本を生んできた仕事の始まりとなった。

三冊のうち、タイトルが彼女の見方を最もはっきり語っているのは「Utatane」だ。うたたねとは、昼間の短い眠り、きちんと横にならずにうとうとすることを言う。深い眠りでも、完全な目覚めでもない。そのあいだ。

最初の本を、どちらともつかない状態にちなんで名づけるのは、めずらしい選択だ。新人はふつう、何かをはっきり宣言したがる。川内は逆を選んだ。不確かさについての、意識がまだぼやけている瞬間についてのタイトル。

開いたばかりの目で見る

「Utatane」の写真は、日常のかけらだ。出来事も、追うべき人物も、旅もない。川内は手の届くものを撮り、説明なしに写真を並べて立たせる。

際立っているのは、その見え方だ。色はしばしば淡く、実際より少し明るい。画面はほぼ正方形で、読む向きに優先がない。物は近くに現れ、ときに近すぎてすぐには見分けられない。あわせて、短い眠りのあとに目を開けたときのように感じられる。世界はまだそこにあるが、少し奇妙で、少し遠く、まだ理性によって並べ直されていない。

それが川内の大切にする状態だ。目覚めているとき、私たちは使うために物を見る。飲むためのカップ、通り抜けるための扉。半分眠っている瞬間、物にはまだ用途がない。形と色と光だけがある。「Utatane」は、物が道具に戻る前の、その状態の物を撮る。

この見方は、2011年の「Illuminance」から、儀式や土地をめぐるのちのシリーズまで、川内の仕事についてまわった。けれど「Utatane」では、それがいちばん新しい。まだ名づけられていない。この本が描く状態そのもののように。

美術館のなかの一枚

この作品が生きる場所は、本だけではない。サンフランシスコ近代美術館は、このシリーズから2001年制作の無題のプリントを一枚所蔵している。27.2×27.4センチのクロモジェニック・プリントで、ほぼ正方形。2014年に Kurenboh Collection から寄贈された。

本から取り出された写真は、壁の上にひとりで立つ。ページをめくるリズムも、前後の像も失う。けれど得るものもある。見るための時間だ。美術館では、ページの上にとどまるよりずっと長く、小さなプリントの前に立っていられる。

小ささも意味をもつ。30センチに満たない写真は、見る人を圧倒しない。一歩近づかせ、少しかがませる。その身ぶりは、目覚めたばかりのときに物を見るしかたに似ている。身を寄せ、目を細め、見ているものを理解しようとする。

二十年以上たっても、「Utatane」は古びていない。それが記録する状態が、特定の年に属さないからかもしれない。誰もが午後のさなかにうとうとし、目を開けて、自分の部屋をはじめて見るように見たことがある。