エッセイ · 嗅覚アート
ショーン・ラスペット「New Olfactory Molecules」
Sean Raspet. New Olfactory Molecules.
背後に花のない、花の匂い。
提供:The Art and Olfaction Awards · Sean Raspet(公式サイト)
存在しなかった分子
化学名は 2-benzyl-1,3-dioxan-5-one。商品名は Hyperflor。ショーン・ラスペットによれば、2018年につくられるまで、この分子は自然界に存在したことも、科学文献に現れたこともなかった。
ラスペットはアメリカのアーティストで、長く化学、風味、匂い、アートが交わる場所で仕事をしてきた。Hyperflor のために、彼は分子を設計し、それを生成する反応経路を開発した。合成は2018年から2019年にかけて、ニューヨーク市立大学に属するハンター・カレッジの化学者シェンピン・ジェン(Shengping Zheng)の研究室で、スーハン・リー(Sihan Li)の協力のもとで行われた。
ラスペットは自身のサイトで、Hyperflor は高い希釈でもきわめて強い花の側面をもつと記す。さらに、自然界に存在する多くの花の分子より自然で複雑だとも感じている。完全に合成されたものが、自然より自然だと語られる。その逆説から作品は始まる。
構造の上では、この分子はフェニル酢酸と特徴を共有する。根の成長にかかわる植物ホルモンだ。根を育てるものと遠い親戚である、花の匂い。気づかずにいるのは難しい。
場面転換としての匂い
2019年、Hyperflor は日本の岡山芸術交流へ向かった。ピエール・ユイグ(Pierre Huyghe)がアーティスティック・ディレクターを務めた回で、タイトルは「IF THE SNAKE」。分子はケースに置かれなかった。街じゅうの展示会場で拡散された。
ラスペットはその役割を、空間と空間のあいだの場面転換と説明する。映画である場面が次の場面へ移るように、来場者はある場所から別の場所へ移り、どちらにも属さない花の匂いを通り抜けた。
通りすがりの人の多くは、新しい分子を嗅いだばかりだとは知らなかっただろう。何か花のようなものに気づき、通り過ぎた。作品はそう働く。見られることを求めず、ただ吸い込まれることを求める。
ある資料によれば、ラスペットはその匂いを、花びらと熟れすぎた植物のあいだにあるものと語ったという。花の匂い。だが盛りをわずかに過ぎ、別の何かに変わろうとしている。
ひとつの分子、三つの身元
Hyperflor は作品であるだけではない。特許出願中で、産業用の香料や香り製品のために商品化が進められている。
だから、ひとつの分子が三つの身元をもつ。創造の行為であること。存在しなかったものを合成すること。法的・商業的な存在であること。名前があり、特許出願があり、市場がある。そして作品であること。物質として、概念として、経済として働く。
アートはふつう生産の外に立ち、それについて語る。ラスペットは内側へ入る。香料産業についての絵をつくるのではない。その棚に新しい原料をひとつ加える。
空の部屋に、ふたつの分子
「New Olfactory Molecules」は、Hyperflor を二つ目の新しい分子 E12 と並べる。アーティストのサイトは E12 を説明していない。だから Penta はここでその匂いを推測しない。
2025年、この作品は The Art and Olfaction Awards のサダキチ賞(Sadakichi Award)の最終候補となった。授賞理由は、視覚的な装飾を加えない最小限のインスタレーションに置かれた、ふたつの新しい香りの分子を記している。
その空白は選択だ。優雅な瓶もなく、花の写真もなく、産地の物語もない。分子と鼻だけ。来場者はもっとも単純な問いに向き合う。ほかの何も指さないとき、この匂いは何なのか。
私たちが知る匂いの多くは、物の名前を借りている。バラ、シダー、オレンジの皮。Hyperflor には借りる物がない。あるのは化学式と、つくり手がつけた名前だけ。