エッセイ · 嗅覚アート

ヴォルフガング・ライプ「Wax Room」

Wolfgang Laib. Wax Room.

壁が匂いである部屋。

ヴォルフガング・ライプ「Wax Room」、The Phillips Collection。一灯の吊り電球に照らされた、金色の蜜蝋の壁の部屋

The Phillips Collection · The Phillips Collection



家の中の小部屋

2013年3月2日、ワシントン D.C. の The Phillips Collection は新しい部屋を公開した。ヴォルフガング・ライプの「Wax Room」。ドイツ語の正式な題は「Wohin bist Du gegangen, wohin gehst Du?」。あなたはどこへ行ったのか、どこへ行くのか、という意味である。

部屋は美術館のもとの建物、美術館になる前のフィリップス家の住まいにある。小さな部屋で、床は縦横それぞれ2メートルほどしかない。壁と天井は蜜蝋に覆われている。天井から裸電球がひとつ下がる。

光が蝋に触れ、蜂蜜色の黄に変わる。だが敷居をまたいで最初に気づくのは色ではない。匂いである。温かく、濃く、わずかに甘い蜜蝋の匂いが、部屋じゅうにある。

それは、1960年の Rothko Room 以来、フィリップスにとって初の恒久的なサイトスペシフィック・インスタレーションであり、ライプにとって美術館での初の恒久的な蝋の部屋だった。

蝋の壁

ライプは大きな蜜蝋の塊から部屋をつくった。蝋を温め、へら、ヒートガン、アイロンを使って、壁と天井に1インチかそれ以下の厚さで層ごとに塗り広げた。作業はゆっくりと均一で、ひとつの動作が何千回も繰り返された。

蝋は柔らかく、温かさに敏感だ。塗り広げる手から形を受け取り、置かれたときの姿を保つ。

だから部屋の匂いは、どんな装置からも来ない。ディフューザーも、香りの容器もない。壁そのものから来る。素材の性質として、部屋が開いている日にはいつもそこにある。

フィリップスはこの部屋を、強く瞑想的で、自己と場所の感覚を失う場所だと説明する。平たく言えば、立ち止まらざるをえないほど小さい。

医学から花粉へ

ヴォルフガング・ライプは1950年、南ドイツのメッツィンゲンに生まれた。医学を学んだ。1972年にインドへ旅し、自分の道を疑いはじめた。最初の作品、彼が brahmanda と呼んだ卵形の石を彫ったあと、医学を離れてアートへ移った。

以来、彼は一握りの自然の素材で仕事をしてきた。村の近くの草地で自ら集める花粉、大理石に注ぐミルク、米、そして蜜蝋。どれも生命と養いに結びつく。どれも固有の匂いをもつ。花粉については「Pollen from Hazelnut」についてのエッセイを参照。

彼はドイツのビーベラッハ近くの村に住み、南インドのマドゥライ近くにもうひとつの家をもつ。どちらの土地も彼の仕事ぶりに表れている。農夫の辛抱強さと、小さな祠の静けさ。

ロスコの隣で

2012年10月、ライプははじめてフィリップスの Rothko Room を訪れた。1960年にダンカン・フィリップス(Duncan Phillips)が整えた、マーク・ロスコ(Mark Rothko)の絵4点を掛けた小さな部屋である。その後彼は、蝋の部屋はロスコの絵と深く開かれた関係をもつと語った。

理由はたやすく分かる。どちらの部屋も小さく、薄暗く、見る者を近くにとどめる。ロスコのカンヴァスは、前に立つ人を色で包む。ライプの部屋は、中にいる人を匂いで包む。

半世紀以上離れた二つの部屋が、ひとつの美術館にあり、ひとつの意図をもつ。人がゆっくりせざるをえないほど小さな空間。ロスコは目を使った。ライプは鼻を使った。

この部屋から持ち帰れるものは何もない。匂いだけ。そしてその匂いは、記憶の中にしか残らない。