エッセイ · 写真
米田知子「Between Visible and Invisible」
Tomoko Yoneda. Between Visible and Invisible.
レンズはまだここにある。それを覗いた人は、もういない。
Mori Art Museum · Mori Art Museum
頁の上の眼鏡
「Between Visible and Invisible」は、米田知子が1998年に始め、今も続けるモノクロのシリーズ。方法は簡素だ。近代思想史に影響を与えた人物が実際に使った眼鏡を探す。それを、その人にゆかりのある文章、楽譜、写真の上に置く。そしてレンズ越しに撮る。
結果はほとんど抽象に近い。頁の大半はピントの外に落ちる。レンズの円の内側でだけ、数行がくっきりと浮かぶ。かつて掛けていた人の度数によって、拡大され、あるいは歪んで。
題はどれも同じ型をとる。誰の眼鏡が、何を見ているか。交響曲第10番、彼が遺した最後の交響曲を見るマーラーの眼鏡。最初の出版者であり支援者だったシルヴィア・ビーチへの手紙を見るジョイスの眼鏡。近代住居についてのパリ講演のメモを見るル・コルビュジエの眼鏡。
谷崎と、松子への手紙
東京の森美術館は、このシリーズから数点を所蔵する。そのひとつが1999年の「Tanizaki's Glasses」。作家、谷崎潤一郎の眼鏡が、松子への手紙の上に置かれている。ゼラチン・シルバー・プリント、正方形、120×120センチ。
その大きさでは、眼鏡は見る人の胴ほどにもなる。手書きの日本語が、虫眼鏡越しのようにレンズの中に現れる。手紙の全文は読めない。見えるのはレンズが見せる部分だけ。かつて掛けていた人が身をかがめて見た、まさにその箇所。
谷崎は日本家屋の陰翳について書いた。紙、木、漆、ほの暗い光について。彼の眼鏡と筆跡を写したモノクロ写真は、その文章と静かに響き合う。
ユングを読むフロイト
より鋭い緊張をはらむ作品もある。「Freud's Glasses, Viewing a text by Jung II」は、現在ロンドンのフロイト博物館にあるジークムント・フロイトの眼鏡を、カール・ユングの頁の上に置く。ユングは、二人が決裂する前、フロイトの近しい弟子だった。森美術館によれば、その文章はフロイトのリビドー概念を批判している。
写真は、フロイトが何を思ったかを語らない。彼の目を、ふたたびその行の前に置くだけ。見る人は思う。かつての弟子の批判を、まさにこのレンズ越しに読んだとき、彼は何を感じたのか。
それがこのシリーズの働き方だ。米田は歴史を再現しない。見る者の物と、見られる物。二つの物を並べ、そのあいだの空間に残りを委ねる。
見えるものと、見えないもの
題がその考えを告げている。見えるものは表面。眼鏡、紙、数行の文字。見えないものは、その人について私たちが知っている、あるいは知っていると思っているすべて。その時代、その信じたこと、守ったこと。米田にとって像は、この二つの層が出会うところで結ばれる。
このシリーズは、より広い関心の接写の側にあたる。「Scene」で米田は、かつて戦場だった土地を撮る。過去は草の下に横たわる。ここでは過去はレンズの下にある。一方は風景、もう一方は机。どちらも、隠れたものを見るために、見る人に自分の知識を持ち込むよう求める。
2025年、このシリーズはロンドンの大和日英基金の1階図書室で、「Faultlines」の一部として展示された。書棚のあいだで、故人たちの眼鏡はまだ読み続けているように見えた。