エッセイ · 写真
ビーケ・デポールテル(Bieke Depoorter)。「Ou Menya」。
Bieke Depoorter. Ou Menya.
一夜あれば、家を内側から見るには足りる。
© Bieke Depoorter · Magnum Photos
ロシア語のメモ
2009年、ベルギーの若い写真家ビーケ・デポールテルは、ひとりでロシアを旅した。持っていたのは、ロシア語が数語走り書きされた小さな紙切れ。一晩泊めてほしいという頼みだった。
彼女はシベリア鉄道に沿って進み、線路沿いの小さな村々、めったに名の挙がらない場所で降りた。どの村でも、出会った人にそのメモを見せた。首を振る人もいた。扉を開ける人もいた。
彼女はそれぞれ約一か月の旅を三度した。毎夜、違う家。居間から居間へと移り、見知らぬ人のソファが一夜の寝床になった。
シベリア鉄道はモスクワとウラジオストクを結び、ロシアのほぼ全幅を横断する。列車は森を、開けたステップを、小さな駅を抜けて何日も走る。乗客の多くは、村を窓越しにしか見ない。デポールテルは列車を降り、その村々に歩いて入り、扉を叩いた。
中心にある居間
デポールテルは自分が眠った場所、居間を撮った。彼女はそこを家族生活の震源地と呼んでいる。ロシアの農村の家では、居間は人々が食事をし、テレビを見て、口論し、子どもが遊び、年寄りがまどろむ場所だ。そしてその夜は、見知らぬ人が横になる場所でもある。
写真はカラーで、家族生活の物で満ちた小さな部屋で撮られている。見知らぬ人などいないかのように、自分の用事を続ける人々がいる。彼女をまっすぐ見つめる、読み取れない表情の人々がいる。
彼女は何も演出しなかった。その時間もなかった。出会いはすべて偶然で、写真はどれも夕食から翌朝までの数時間のうちに撮られた。
私の家で
「Ou Menya」は、私のところで、私の家で、という意味のロシア語の句を音写したものだ。主人が客に言うかもしれない言葉。うちに泊まりなさい。だからこの題名は写真家のものではない。扉を開けた人々のものだ。
デポールテルはこうした滞在を、短いけれどとても力強い、分かち合われた時間だと語る。主人は、自分が持つもっとも私的な部屋に見知らぬ人を迎え入れる。見知らぬ人はその代わりに、客向けの顔をつくらない、ありのままの暮らしを見る。
そこには奇妙な信頼がある。どちらも相手が誰なのかを知らない。契約も、約束もない。あるのはメモと、扉と、一夜だけ。
見る者もまた、客の位置に置かれる。私たちは彼女と同じように部屋の隅に立ち、家族がありふれた夜を過ごすのを見る。一人ずつ、一つの用事ずつ。彼らの名前は知らない。知っているのは、自分が彼らの家の中にいるということだけ。それは親密で、同時に少し気まずい。その気まずさこそが、写真を本物にしている。
なぜ残るのか
「Ou Menya」でデポールテルは HP Magnum Expression Award を受賞した。2011年、ベルギーの出版社 Lannoo がそれを彼女の最初の写真集として刊行した。のちに彼女は Magnum Photos の正会員となり、同じやり方でさらに多くのプロジェクトを手がけた。見知らぬ人の家に入り、一夜を過ごすこと。
ラリー・サルタンの「Pictures from Home」と並べると、家の中を見る二つの方法が現れる。サルタンは自分が属する実の両親の家を撮り、そこでそれまで見たことのなかったものを探した。デポールテルはまったく見知らぬ人々の家、自分が属さない場所を撮り、家族が忘れていたものを一目で見た。
「Ou Menya」はロシアの肖像ではない。夜の連なりである。一夜ごとに一つの扉が開いた。それだけで記録する価値があった。