エッセイ · 嗅覚アート
カシミア。触れることをめぐる匂い。
Cashmere. A smell about touch.
人は何かを嗅いで、触れることを思う。
カシミアのウール。ほとんど匂いのない物
カシミアは、カシミアヤギの外毛の下に生える細い産毛から取るウールだ。カシミアヤギはアジアの寒冷な高地にすむ動物。名はカシミールに由来し、そのウールで織られたショールは、かつてヨーロッパで名高かった。
カシミアの繊維はとても細く、軽く、温かい。人が覚えているのは肌の上での感じだ。重さがないように思えるほどやわらかい。清潔なカシミアのマフラーは、ほとんど何の匂いもしない。匂うとしても、それは身につけていた人の、石鹸の、木の衣装箪笥の匂いだ。
それでも香水の世界では、カシミアはひとつの匂いの名前だ。ウールの匂いではない。ウールが残す感触にちなんで名づけられた、分子の匂い。
Cashmeran。木、ムスク、温かな埃
Cashmeran は、1970年代に IFF がつくった分子の商品名だ。化学名は長く無味乾燥で、五つのメチル基をもつインダノン。構造は多環式ムスク、つまり洗剤に使われた清潔なムスクに近い。けれど匂いは木のほうへ傾くので、ふつうはムスクと木のあいだに置かれる。
Cashmeran は鼻自身の言葉では描きにくい。人は多くの言葉に手をのばす。温かい木、ムスク、松、軽いスパイス、少し湿った土、温かな埃。けれどいちばんよく使われる言葉は、そもそも鼻のものではない。やわらかい。ウールのように。肌のように。
香水のなかで、Cashmeran はウッディな香りをやわらげ、ムスクとつなぎ、温かさと近さの感覚を添えるために使われる。主役として前に出ることはない。むしろコートの内側の裏地に近い。
多くの分子と同じく、Cashmeran にも使用の制限がある。IFRA は2020年に制限の基準を公表し、製品の種類ごとに異なる上限を定めている。
触覚から言葉を借りる
匂いに毛織物の名をつけるのは奇妙なことではない。たいていの言語で、嗅覚はもっとも言葉の乏しい感覚だ。色、音、味には多くの言葉がある。匂いには少ない。たいていは、匂いを生むものの名で呼ぶ。オレンジ、煙、草。出どころがはっきりしないとき、私たちは借りる。
私たちは思っている以上に触覚から借りている。やわらかい匂い。鋭い匂い。重い匂い。温かい匂い、ひんやりした匂い。ビロードのようになめらかな匂い。どの言葉も化学のことではない。肌の上の感覚のことだ。
Cashmeran はただもう一歩進むだけだ。借りるのは形容詞ではなく、ひとつの素材の名前まるごと。そして人はすぐに理解する。本物のカシミアのマフラーに一度も触れたことがなくても。
鼻が手の言葉を話すとき
ここには考えるべきことがある。カシミアという名は匂いを描写していない。描写しているのは、それを嗅ぐときに人が感じたいものだ。包まれる、温かい、そっと触れられる。この場合、匂いはもはや物についての情報ではない。ひとつの感覚への招待だ。
匂いがひとりで立つことがいかにまれかがわかる。匂いはほかの感覚に、肌の記憶に、手の記憶に、部屋の温度に寄り添う。ウッディな匂いは匂いだけではない。木の表面のなめらかさでもあり、午後の温かさでもある。
カシミアのマフラーには、いまも匂いがない。けれどある分子がその名を借り、それ以来、人はそれを嗅ぐたびに触れることを思う。