エッセイ · 写真
クラウディア・アンドゥハル(Claudia Andujar)「The Yanomami」
Claudia Andujar. The Yanomami.
輪郭がぼやけたときにだけ、現れるものがある。
提供:作家および Galeria Vermelho, São Paulo · Aperture
生き延びた人がアマゾンにたどり着く
クラウディア・アンドゥハルはスイスのヌーシャテルに生まれ、トランシルヴァニアのオラデアで育った。父はハンガリー系ユダヤ人。1944年に移送され、強制収容所で亡くなった。スイス人の母は彼女を連れてスイスへ逃れた。1947年、アンドゥハルは難民としてニューヨークに着いた。1955年、サンパウロに移った。
ブラジルで彼女は絵をやめ、独学で写真を学んだ。1966年から1976年まで雑誌『Realidade』で働き、ブラジル社会の周縁にある共同体を撮った。彼女の写真は『Life』や『Aperture』にも載った。
1971年、『Realidade』はアマゾンの特集号をつくった。その取材の旅で、アンドゥハルは初めてヤノマミに出会った。この出会いが、彼女の残りの人生を形づくった。
彼女の人生のこの二つの部分を並べずにいるのは難しい。一つの民族を消し去るための政策で父を失った人が、のちに、脅かされる別の民族のそばに立ち続けて生涯を送った。アンドゥハルはこれを標語にしなかった。けれど、彼女が決して通りすがりの写真家でなかった理由は、ここにある。
見えないものを撮る
最初の旅のあと、アンドゥハルは何度も戻り、長く滞在した。二度のグッゲンハイム・フェローシップが支えだった。森の中の大きな共同家屋での日々の暮らし、子ども、老人、集まり。やがて彼女は限界に気づく。カメラは表面しか見ない。ヤノマミの世界でもっとも大切なものは、目に見えないところにある。
ヤノマミは精霊とともに生きる。シャーマンはトランスに入り、精霊と出会い、言葉を交わす。アンドゥハルは、自分の写真をそこまで届かせたかった。
彼女はあらゆることを試した。像を柔らげるためにレンズにワセリンを塗る。光が筋になって滲むように、フラッシュと石油ランプを使う。色が現実から漂い出るように、赤外線フィルムを使う。長時間露光、多重露光。踊る人が幾つもの影を残すように。
その結果、人と煙、体と光の境がほとんど溶けた写真が生まれた。見る人が、すべてを理解することはない。けれどそこには、見えているもののほかに、何かが枠の中にいるという感覚がある。
この仕事の多くはカラーだった。記録写真がまだおおむねモノクロだった時代に。火の赤と、赤外線でずれた色合いは、彼女自身の言葉の一部になった。
立場を選ぶこととしての写真
1974年から、ブラジル政府はヤノマミの土地を貫いて北部周回道路(Perimetral Norte)を通した。道は外部の人を運び、共同体がそれまで出会ったことのない病気をもたらした。アンドゥハルはこれを内側から見ていた。
1977年、当局は彼女にヤノマミの領域から退去するよう強いた。彼女はやめなかった。1970年代の終わりから、ほかの人々とともに、ヤノマミの土地が認められ守られるよう運動を続けた。1992年、その領域は公式に画定された。それ以来、彼女にとって写真は芸術であるだけでなく、政治的な行為でもあった。
現在、彼女の作品はミナスジェライス州のイニョチンに常設のパビリオンをもつ。開館は2014年。2015年には、リオデジャネイロのモレイラ・サレス研究所が、チアゴ・ノゲイラ(Thyago Nogueira)の企画による大規模な展覧会を開いた。
「Brain Forest Quipu」のセシリア・ビクーニャと同じく、アンドゥハルは森を風景としてではなく、人と記憶と声のある場所として扱う。彼女の写真は、脅かされているのが木々だけではないことを思い出させる。