エッセイ · 現代アート
ダグラス・ゴードン(Douglas Gordon)「24 Hour Psycho」
Douglas Gordon. 24 Hour Psycho.
見慣れたものは、遅くすると、見知らぬものになる。
© Studio lost but found/VG Bild-Kunst, Bonn 2017/from · Gagosian
一日続く映画
アルフレッド・ヒッチコックの「Psycho」は1960年に公開された。映画史でもっとも多く観られ、論じられ、引用されてきた映画のひとつ。映画全体を観たことがなくても、シャワーの場面を知っている人は多い。
1993年、スコットランドの若い作家ダグラス・ゴードンは、この映画をまるごと手に取り、ひとつのことだけをした。遅くしたのだ。通常の毎秒24コマではなく、約2コマで映写した。2時間に満たない映画が、まる24時間に引き伸ばされた。
作品の名は「24 Hour Psycho」。1993年、グラスゴーのトラムウェイで初めて展示された。ゴードンは新しく何も撮らず、何も切らず、何も変えなかった。作品は流用だけでできている。他人の映画を、別の時間の枠の中に置くこと。
像は暗い部屋の大きなスクリーンに映される。音はない。見る者はいつ入っても、ちょうどその瞬間の映画に出会い、好きなときに出ていく。
ゆっくり見ることは、違って見ること
通常の速さでは、「Psycho」はサスペンスの機械だ。ヒッチコックは観客が息をのむように、すべてのカットを計った。遅くすると、機械は止まる。サスペンスは消える。残るのはコマ、ひとつ、またひとつ。
振り向くのに数分かかる。扉は、いつまでも開ききらないかのように開く。俳優の顔は、肌の皺のひとつひとつ、光の筋のひとつひとつが見えるほど長く静止する。見過ごされるためにつくられたものが、いまは見られなければならない。
音がないと、部屋も変わる。恐怖を告げる金切り声のような弦はない。ほかの来場者の足音、息づかい、開いては閉じる扉だけ。音で名高い映画が、いまは像だけで立たなければならない。その像はあまりにゆっくり流れるので、ほとんど一枚の写真だ。呼吸する写真。
ゴードンは長く、記憶が映画をどうとどめるかに関心を寄せてきた。私たちはしばしば、映画を実際よりも鮮やかに覚えていたり、間違って覚えていたりする。「24 Hour Psycho」はその記憶を原作の隣に置く。ただし、記憶が追いつけない速さで。見る者は二つのもののあいだに立つ。頭の中の映画と、スクリーンの上の映画。
24時間すべてを観る人はほとんどいない。作品もそれを求めない。一人ひとりが数分の断片を持ち帰る。同じ断片は二つとない。
物としての時間
1996年、ダグラス・ゴードンはターナー賞を受賞した。「24 Hour Psycho」は彼の名を広く知らしめた作品のひとつで、その後、世界の多くの場所で展示されてきた。
2017年には、プリンストン大学のルイス・アーツ・コンプレックスに新しく建てられたハーリー・ギャラリーのこけら落としに選ばれた。会期は9月29日から10月22日まで。初公開から25年近く経っても、同じ映画、同じ速さが、新しい空間を開くのに十分なほど見知らぬものだった。
「24 Hour Psycho」が私たちのもとにとどまるのは、流用の大胆さのためではない。時間を、手に取って眺められるものに変えるやり方のため。毎秒2コマ。24時間。その数字が作品のすべて。
数年後、別の作家クリスチャン・マークレーも、他人の映画から24時間の作品をつくった。「The Clock」。実際の時刻と一致する時計が映る何千もの場面をつなぎ合わせたもの。二つの作品は逆の方向へ進む。マークレーは映画の中の時間を、外の時間につなぐ。ゴードンは映画の中の時間を、暮らしから外れるまで引き伸ばす。それでも二つは同じことを問う。像の時間の中で、私たちはどこに立っているのか。