エッセイ · 写真
エドワード・バーティンスキー(Edward Burtynsky)「Oil」
Edward Burtynsky. Oil.
石油そのものは現れない。残していったものだけ。
The Photographers' Gallery · The Photographers' Gallery
1997年の気づき
エドワード・バーティンスキーは1955年生まれ、カナダの写真家。「Oil」以前、彼は何年も、人によって変えられた土地を撮っていた。鉱山、採石場、スクラップ置き場。誰も美しいとは呼ばない風景だが、その規模が人を立ち止まらせた。
1997年、本人の言葉によれば、彼はそれらの風景をつなぐものに突然気づいた。掘られ、ならされ、運び去られる大地は、すべてひとつのものによって可能になっていた。石油。掘削機はそれで動いた。トラックもそれで動いた。彼が撮っていた産業全体が、それの上に成り立っていた。
それ以来、彼は石油そのものを追うことにした。物としてではなく、循環として。どこから採られ、何に変えられ、どの道を通り、どう終わるのか。
プロジェクトは1997年から2009年まで続いた。12年、多くの国。巨大な構造物の前に何百回も立ち、ふさわしい光とふさわしい視点を待った。
循環の三つの段階
2012年、ロンドンの The Photographers' Gallery が、5月18日から6月30日まで「Oil」を展示した。アムステルダムの Huis Marseille、トロントの Gallery Nicholas Metivier との協働による。写真は三つの部分に分けられた。
一つめは採掘と精製。2003年に撮影されたカリフォルニア州ベルリッジなどの油田。何百ものポンプジャッキが地平線まで繰り返し並び、そのまわりの地面は平らで乾いている。そして、鋼の配管が絡み合う製油所。遠くから見ると、人のいない都市のようだ。
二つめは輸送とモーター文化。2003年のロサンゼルスの高速道路のインターチェンジ、2008年のペンシルベニア州ブリーズウッドのガソリンスタンドと看板の列。ここで石油は移動になっている。人はほとんど意識することなく、その中で暮らしている。
三つめは「The End of Oil」と名づけられた。巨大な船体が一枚ずつ切り離されていくタンカーの解体場。古い車両が積み上げられた場所。循環はそこで、断片となって閉じる。
距離と細部
バーティンスキーはカラーで撮り、大きくプリントする。高い視点を選ぶことが多い。ときに航空機から、ときに地上の高みから。その距離から見ると、人は縮み、ほとんど消える。残るのは、人がつくったものの形だ。
見る者がいちばん覚えているのは、その鮮明さ。広大な範囲を収めた写真でも、ポンプジャッキの一基一基、車線の一本一本、錆の一片一片がくっきりしている。目は一枚のプリントの上を長く旅しても、細部を使い果たさない。
同じ時代の他の写真家たちも、大判と鮮明さで産業的な生活の規模を語った。棚の列を撮ったアンドレアス・グルスキーのように。バーティンスキーにおいて、その規模は屋外、大地の上にある。
だから彼の写真は分類を拒む。ただの記録と呼ぶには美しすぎ、ただの風景と呼ぶには正確すぎる。バーティンスキーは写真の下にスローガンを書かない。見る者をその規模の前に立たせる。不安にさせるか、引き込むか、その両方か。
破壊を魅力的に見せていると、彼を非難する人もいる。その魅力こそが人を長く見つめさせるのだと論じる人もいる。作品は議論に決着をつけない。開いたままにしておく。
見えないもの
「Oil」は、画面にほとんど現れない物質についての作品群だ。石油は地下にあり、管の中を流れ、エンジンの中で燃える。私たちがそれを目にするのは、たいてい本来の場所から漏れ出したときだ。
代わりにバーティンスキーは、そのまわりにあるものを撮る。インフラ、痕跡、残骸。そこから見えてくるのは、石油がどこか遠くの原料ではないということ。それは大地の形になり、都市の形になり、私たちが毎日使う道の形になっている。
十年以上たって見ると、このシリーズは目録のように読める。登場人物もなく、筋もない。場所の連なりだけがあり、そのひとつひとつが黒い液体の一生の一段階だ。そして大きなプリントの前に立つ者は、自分もその連なりの中にいると気づく。