エッセイ · 写真

トーマス・シュトゥルート「Museum Photographs」

Thomas Struth. Museum Photographs.

見る人も、絵の一部だ。

トーマス・シュトゥルート「Museum Photographs」。美術館の展示室で絵画の前に立つ来館者を写した大判カラー写真


絵の前の人々

トーマス・シュトゥルートはドイツの写真家。「Museum Photographs」は、彼がヨーロッパとアメリカの主要な美術館の中で撮った大判カラー写真のシリーズ。着想は、ナポリとローマで暮らした年月から来ている。そこでは古い芸術が切り離されずに、日々の暮らしと混じり合っている。

もっとも集中して取り組んだのは1989年と1990年。シュトゥルートは、パリのルーヴル美術館とオルセー美術館、ロンドンのナショナル・ギャラリー、ウィーン美術史美術館、アムステルダム国立美術館、シカゴ美術館、ヴァチカン美術館、ローマのパンテオンに入った。1992年にはヴェネツィアのアカデミア美術館のために戻った。1994年にはニューヨーク近代美術館。

どの写真でも、有名な絵は壁に掛かったままだ。けれどカメラはそれだけを狙わない。一歩下がり、見ている人々が収まるところまで引く。団体客、ベンチに座る誰か、通りすぎる数人、長くとどまるひとり。

絵画の大きさ

これらの写真は大きい。1989年撮影の「Louvre 1」は高さ約180 cm、幅は230 cm近い。同じ年の「National Gallery 1」は高さ176 cm近く。1990年の「Pantheon, Rome」は幅233 cmを超える。本の中の図版ではなく、美術館の絵画の大きさだ。

この大きさがひとつの循環を生む。「Museum Photographs」がギャラリーに掛けられると、来場者はその前に、写真の中の人々が絵の前に立つのとまったく同じように立つ。立ち止まり、身を乗り出し、全体を見るために一歩下がる。外の人々と中の人々が、互いを映し合っているように見える。

1990年、シリーズはケルン、ニューヨーク、アムステルダム、ブリュッセル、パリの五つのギャラリーで順に展示され、同年のヴェネツィア・ビエンナーレのアペルト部門にも出品された。美術館についてのシリーズが、人々が芸術を見に行く場所をめぐった。

見ることを見る

美術館にある古い絵はどれも、かつては日々の暮らしの中の物だった。教会に、宮殿に、誰かの客間に掛けられていた。美術館はそれをその暮らしから取り出し、見知らぬ人々の前に置く。シュトゥルートが撮るのは、まさにこの出会い。とても古い物と、今日それを訪れる人々との出会いだ。

写真の中で、来館者は1989年や1990年の服を着ている。鞄を提げ、ガイドブックを持ち、子どもを連れている。こうした日常の細部が、何世紀も前の絵の隣に並ぶ。二つの時間が、ひとつのフレームの中で重なる。

来館者の多くはレンズに背を向けているか、目をそらしている。何を考えているのかは見えない。見えるのは姿勢だけ。後ろで組んだ手、反らした頭、画布を指さす手。身体が顔の代わりに語る。そして顔が隠れているからこそ、自分をその場に置くのはたやすい。あの背中のどれもが、いつかの午後、あのような部屋での私たちの背中でありうる。

シュトゥルートが明らかにするのは、芸術を見ることが中立ではないということ。どこに立つか、どれくらいの時間か、誰と一緒か。そのすべてが、一枚の絵を理解することの一部だ。ふだんは見えない見るという行為が、形と姿勢をもつもの、写真に撮れるものになる。

同じ時期、ほかの写真家たちも美術館にカメラを向けた。たとえば人のいない部屋を撮ったカンディダ・ヘーファー。シュトゥルートは逆をした。人々を残した。彼にとって美術館は、誰かがそこに立って見ているときにはじめて完成するからだ。