エッセイ · 写真
フランチェスカ・ウッドマン「Space²」
Francesca Woodman. Space².
体は去り、部屋はかたちを残す。
© Woodman Family Foundation / Artists Rights Society (ARS), New York · Hood Museum of Art, Dartmouth
ひとりの学生と、ひとつの部屋
フランチェスカ・ウッドマンは1958年にアメリカで生まれ、1981年、22歳で亡くなった。残したものの大半は、ほんの数年のうちにつくられた。その多くは、プロヴィデンスのロードアイランド・スクール・オブ・デザインで写真を学んでいたあいだのもの。
「Space²」は、1975年から1976年頃、ウッドマンが1年生だったときにプロヴィデンスでつくられたシリーズ。タイトルは数学の冗談。空間の二乗。空間に空間を掛けたもの。部屋の空間と、写真の平らな空間。
主題はプリントごとにほとんど変わらない。ひとつの体、たいていはウッドマン自身が、古い部屋の隅に置かれている。剥がれかけた壁、木の床、窓、戸棚。物語は語られない。ただひとりの人と、彼女が立つ場所があるだけ。
プリントは、8 x 10インチの紙に焼かれた小さなゼラチン・シルバー・プリント。ダートマスのフッド美術館が所蔵する1枚は、エディション40のうちの11番。
陳列ケースと腕
シリーズでもっともよく知られた像は、ウッドマンをガラスの陳列ケースのなかに置く。ふつうは標本を見せるのに使われる種類のケース。彼女は裸で、ガラスに体を押しつけ、戸棚のなかの木の板の上で均衡をとっている。まわりは闇。
こうしたケースは、物が見られるために存在する。剥製の鳥、鉱物、陶器のかけら。ウッドマンは自分をその位置に置く。けれど標本のようにじっと横たわりはしない。片腕が、ケースの枠を越えて、それが引く境界の外へ伸びている。
美術館の解説は、彼女は裸だが無防備には見えない、と述べる。陳列される物であることを拒んでいる。その拒絶が見えるようになる場所が、腕。体は箱のなかにあるが、決定は箱の外にある。
その像は、おかしくもあり、不穏でもある。おかしいのは、17歳の少女が写真を撮るためにガラスケースに入り込んだから。不穏なのは、そのケースが、生きている者が眺めるために保存された死んだものを思わせるから。
長時間露光
「Space²」の主な技法は単純。シャッターを開けたままにする。そのあいだにウッドマンは動く。部屋は静止しているので、くっきり写る。体はにじみになり、ときに壁が透けて見えるほど透明になる。
結果は反転。肖像ではふつう、人が中心にあり、背景は退く。ここでは背景のほうが人よりも確か。床板、壁の染み、窓枠が、すべて重みをもつ。人物は、通り過ぎる煙の痕跡。
シリーズのほかの写真は、別の隠れ方を使う。家具の陰に押し込まれた体、ガラス板で平らにされた体、部屋の隅に溶け込む体。批評家たちはしばしば、このシリーズが基本的なことを思い出させると言ってきた。どの写真も歪みである。カメラは世界を記録するのではない。平面に押し込まれた時間の幅を記録する。
ウッドマンはその限界を素材として使った。フィルムが光を取り込むには時間が必要なので、彼女は時間を写真のなかに現れさせた。溶けていく体として。数年後、杉本博司は映画館で、映画1本の長さのあいだシャッターを開けたままにした。二人の作家、二つの方法、ひとつの考え。時間はカメラが記録できるものだ、ということ。
なぜ「Space²」はいまも見られるのか
ウッドマンは若くして亡くなり、その死はしばしば、彼女の写真の読まれ方に影を落とす。けれど「Space²」の前では、鑑賞者に伝記は要らない。そこにあるもので十分。ひとりの若い作家が、光を通して自分の体と部屋がどう語り合えるかを試している。
彼女の作品はいま、主要な美術館のコレクションに入っている。フッド美術館は2013年に陳列ケースのプリントを収蔵し、身体とアイデンティティをめぐる展覧会で展示してきた。プリントがいまも小さいことは注目に値する。鑑賞者は近づいて身をかがめなければならない。本物の陳列ケースをのぞき込むときと同じように。
「Space²」はひとりの人の物語を語らない。ある場所に残った、ひとりの人の痕跡を記録する。人はぼやけ、場所はくっきりしている。そしてそのぼやけこそが、私たちのなかに残る。