エッセイ · 現代アート
ハルーン・ファロッキ「Parallel I-IV」。
Harun Farocki. Parallel I-IV.
コンピューターが築いた世界に、風は一種類しかない。
Tate · Tate
四つの部分、ひとつの問い
「Parallel I-IV」は、ドイツの映像作家、美術家ハルーン・ファロッキによる四部構成のビデオ作品。第一部「Parallel」は2012年に完成し、16分のループで上映される。残る三部は2014年に続いた。「Parallel II」は9分、「Parallel III」は7分、「Parallel IV」は11分。
四部すべてが扱うのは、ひとつの種類の映像。コンピューターアニメーション、とりわけビデオゲームのグラフィックス。ファロッキは、コンピューターで生成された映像が映画を追い越し、普遍的なモデルになりつつあると論じた。
ファロッキは2014年、最後の三部が完成したその年に亡くなった。「Parallel」は彼の最晩年の作品のひとつとなる。四部作はいま Tate のコレクションにある。
同じ頃、ほかの作家たちも、古い映像が新しい映像に対してどこに立つのかを問うていた。たとえばタシタ・ディーンは、消えつつあったセルロイドのフィルムを擁護した。ファロッキは逆へ向かった。映画に取って代わろうとする種類の映像をまっすぐ見つめ、その仕組みを理解しようとした。
線から写真のような像へ
「Parallel I」は、コンピューターグラフィックスの様式史を開く。1980年代の最初期のゲームは、水平線と垂直線だけでできていた。道は二本の線。山はいくつかのぎざぎざの印。
ファロッキによれば、その抽象は欠点とみなされ、ゲーム産業は何十年もかけてそれを正してきた。今日、映像はフォトリアリズムを目指す。きらめく水、震える葉、流れる雲。
世代ごとの映像を並べると、ひとつの進化が見える。木はより木らしく、水はより水らしくなっていく。
けれど彼の問いは、映像がどこまで来たかではない。こうだ。コンピューターの映像がこれほど本物らしく見えるとき、それは私たちが現実の世界を見る見方をどう変えるのか。
世界の果て
「Parallel II」と「Parallel III」は、ゲーム世界の境界を探る。ゲームの世界はどこで終わるのか。多くの世界は、宇宙に浮かぶ円盤であることがわかる。ヘレニズム以前の大地の観念を思わせる。
これらの世界には、劇場の舞台のように、前には張り出しが、後ろには背景幕がある。ある地点を越えると、風景は描かれた平面にすぎない。
二つの部分は、ゲームの中の物の本性も検証する。ファロッキは、それらに実在がないことを見いだす。その性質はひとつひとつ別々に組み立てられ、割り当てられなければならない。木箱は木のように見えて、決して壊れないことがある。岩は石の色をしていて、重さがないことがある。プログラムされていないものは存在しない。
現実の世界では、物はすべての性質を一度に担っている。誰も気づかない性質まで含めて。築かれた世界では、物は許されたものしかもたない。
親のいない英雄たち
「Parallel IV」は主人公たちに向かう。1940年代のロサンゼルス、終末後の土地、西部開拓時代、そのほかのジャンルの世界を、プレイヤーが追いかける人物たち。
ファロッキは、こうした英雄には親も師もいないと指摘する。彼らは自分でルールを見つけ出さなければならない。表情はほとんどひとつきり、特徴はごくわずか。話すのは、ほとんど入れ替え可能な短い文。
彼は彼らをホムンクルスと呼ぶ。人間がつくった、人のかたちをした存在。彼らと遊ぶ者は、創造者の誇りを少しだけ分けもつ。
木、水、地面、物のあとで、最後の部は人の姿で連作を閉じる。そしてその姿も、ほかのすべてと同じように組み立てられている。属性をひとつずつ、過去をもたずに。
「Parallel」が記憶に値するのは、ビデオゲームを退けもせず、称えもしないから。ドキュメンタリー作家の目でそれを見つめ、新しい種類の映像が、私たちの世界の思い描き方を静かに変えていることを示す。