エッセイ · 写真

アーヴィング・ペン「Flowers」。

Irving Penn. Flowers.

ペンは、花が盛りを過ぎるのを待った。

アーヴィング・ペン「Flowers」:無地の中間色の背景に置かれ、花びらを大きく開いた一輪

© The Irving Penn Foundation · Fraenkel Gallery



クリスマス号のための依頼

1967年、アメリカ版 Vogue のアートディレクター、アレクサンダー・リーバーマンは、12月号のために花の静物のシリーズを撮るようアーヴィング・ペンに依頼した。最初はチューリップだった。仕事はやがて習慣になった。1967年から1973年まで、クリスマス号のたびに、ペンは誌面のために花を撮った。

その年月、七種類の花が彼のレンズの前を通った。ケシ、チューリップ、バラ、ユリ、シャクヤク、ラン、ベゴニア。庭はなく、整えた花束もない。一輪ずつが、無地の中間色の背景の前に単独で置かれ、ほとんどポートレートのように撮られた。

ペンはすでに人をこうして撮っていた。スタジオの狭い一角で、古い背景幕の前に、小道具なしで撮るポートレートで知られていた。花にも同じ抑制を用いた。花は飾られない。ただ見られる。

盛りを過ぎた花を撮る

ペンの花をカレンダーの花から分かつのは、彼が選んだ瞬間である。シリーズの多くの花は、いちばん新鮮な状態ではない。開けるだけ開き、花びらがもうまとまっていないチューリップ。紙のように薄い花びらが縮れはじめたケシ。見る者は、見せるための部分だけでなく、手放そうとしている部分を見る。

この段階の花は、つぼみの整いを失う。けれど、つぼみが隠しているものを見せる。葉脈、花びらの透け、形が開き、やがて手放していくさま。Fraenkel Gallery のシリーズ解説は、美の生命力とはかなさの両方を語っている。どちらも同じ一輪の中にある。

無地の背景が、それを見やすくする。比べるものはなく、物語を語る舞台もない。目は花そのものの形、質感、色にとどまるしかない。アメリカオニアザミや、房状の唇弁をもつラン、Rhyncholaelia digbyana が、美術館の物のように綿密に見つめられる。

遅い色、遅れて出た本

ペンは花をカラーで撮った。当時の芸術的な静物写真の多くが白黒だったころである。難しいのは色だった。ケシの花びらの色の移ろいや、シクラメンの紫を正確に刷るには費用がかかった。

その印刷費のために、ペンがシリーズの本の出版社を見つけるまでに十年近くかかった。『Flowers』は1980年、ニューヨークの Harmony Books からようやく刊行された。カラー図版は75点。

一部のプリントはダイ・トランスファーでつくられた。色のチャンネルを一つずつ制御できる、手間のかかるカラー技法である。Fraenkel Gallery が扱う1969年撮影のランは、1990年に刷られたダイ・トランスファー。後年のプリントの多くはインクジェットである。

ペンは Vogue のシリーズで終わらなかった。Fraenkel が挙げる花の写真は1960年代末から2006年に及ぶ。アイスランドポピー、オリエンタルポピー、ペルシャスミレのシクラメン、ユリ、チャイナピンクのチューリップ。花は、四十年近く彼が立ち返る主題になった。

なぜこれらの花は心に残るのか

花の写真はたやすく装飾になる。ペンは花に媚びないことで、それを避ける。完璧な瞬間を選ばず、露も、見栄えのよい花瓶も加えない。花を、その本当の段階のまま、ひとりで立たせる。

同じ目が、数年後、歩道の吸い殻へと身をかがめた。花と吸い殻。ひとつは人が贈り合うもの、ひとつは人が捨てるもの。ペンにとって、どちらも時間を通り過ぎていく物であり、どちらもゆっくり見られるに値した。