エッセイ · 写真

ローラ・レティンスキー「Hardly More Than Ever」。

Laura Letinsky. Hardly More Than Ever.

食事が終わり、食卓が語りはじめる。

ローラ・レティンスキー「Hardly More Than Ever」:しわの寄った布、食べかけの皿、熟れた果物が残る食後の食卓

The Renaissance Society · The Renaissance Society



客が帰ったあとの食卓

しわの寄ったテーブルクロスに、染みが広がっていく。ソースの筋が残る皿がいくつか。縁に沿ったパンくず。熟れすぎて皮にしわが寄りはじめた果物。グラスのなかでうなだれる花。そこに座る人は、もういない。

これが、ローラ・レティンスキーが1997年から2004年にかけて制作した静物写真のおなじみの光景。2004年、このシリーズはシカゴ大学の The Renaissance Society で「Hardly More Than Ever, Photographs 1997 to 2004」として、3月7日から4月18日まで展示された。同じ年、彼女の静物写真の最初の図録が出た。美術史家ハンネケ・フローテンボーア(Hanneke Grootenboer)の論考を収める。

シカゴの展示には、寝室にいるカップルの肖像も含まれていた。レティンスキーの初期の仕事。並べてみると、二つの群はひとつの主題を共有している。家で人がともにする暮らし。人がそこにいるあいだと、去ったあと。

念入りにつくられた静物

一見、これらの食卓は放り出されたように見える。偶然ではない。レティンスキーは細部のすべてを配置する。カップの位置、ナイフの角度、二枚の皿のあいだの隙間。写真のなかの散らかりは、計算された散らかり。

彼女は低感度のフィルムと長時間露光で撮った。輪郭はやわらぎ、影は深まる。光はおだやかで、すでに暮れかけた昼の光に近い。布と壁の白い面はしばしば溶けあい、テーブルの縁が消える。

批評家はたいてい二つの源流を挙げる。ひとつはウォーカー・エヴァンス(Walker Evans)らの、演出のないスナップ写真の伝統。もうひとつはラファエル前派の絵画の光と空気。けれどもいちばんはっきりした源流は、もっと遡ったところにある。17世紀のオランダとフランドルの静物画。

ふたたびヴァニタス

17世紀のオランダの画家たちは、物であふれた食卓を描いた。半分むいたレモン、倒れたグラス、二つに切ったパイ、蟹、葡萄の房。その豊かさのなかに、いつも衰えのしるしがあった。一匹の蝿、落ちた花びら、傷んだ桃。このジャンルはヴァニタスと呼ばれる。すべては過ぎ去るという戒め。

レティンスキーは構造を残し、豊かさを捨てる。彼女の食卓では、宴はもう終わっている。料理は食べられた。残るのは食べ残し、誰も目を向けない部分。題名がそれを語る。ほとんど何も残っていない、それでもかつてないほどに。

ひとつ大きな違いがある。ヴァニタスの絵はたいてい道徳の教えを帯び、見る者に死と虚栄を思わせた。レティンスキーの写真は説教しない。もっとやさしい。パンくずを美しいものとして見つめ、それを残した誰かを責めない。

それはまた、彼女の写真が愛と、家事という静かな労働を語るやり方でもある。誰かが料理した。誰かが食卓を整えた。誰かがこの皿を洗わなければならない。食卓はその労働が出会う場所であり、いちばん早く忘れられる場所。

なぜ食べ残しを見る価値があるのか

いまの料理写真の多くは、皿が厨房を出た瞬間に撮られる。つややかで、手つかずのまま。レティンスキーは逆へ向かう。私たちが急いで片づけるものを撮る。だから彼女の写真は、完璧な料理写真が決して見せないものを見せる。テーブルの上を過ぎていく時間。

捨てられたものへの同じまなざしの系譜では、アーヴィング・ペンが路上で拾った吸い殻もまた静物へと高められた。けれどもレティンスキーは、もっと家の近くにとどまる。外に出る必要はない。食事が終わるのを待てばいい。