エッセイ · 現代アート

アイザック・ジュリアン「Ten Thousand Waves」。

Isaac Julien. Ten Thousand Waves.

水は来ては去る。去った人は戻らない。

アイザック・ジュリアン「Ten Thousand Waves」:九面スクリーンの映像インスタレーション、海と霧を背にした女性

© Isaac Julien · M+ Museum



モーカム湾の一夜

2004年2月、イングランド北西部のモーカム湾で、潮が満ちるなか、二十三人の貝採りが溺れた。彼らは中国の福建省から来ていた。書類もなく、地元の人々が危険だと知っていた砂地で、水が人の走るより速く上がる時刻に働いていた。

その日のニュースは短かった。ひとつの数字、ひとつの地名、密入国の組織についての数行。やがて別のニュースが来た。

イギリスのアーティストで映像作家のアイザック・ジュリアンは、その数字を流れ去らせなかった。六年後の2010年、彼は「Ten Thousand Waves」を完成させた。35mmで撮影しデジタルに移した九面スクリーンの映像インスタレーション。上映時間は四十九分四十一秒。あの夜をドキュメンタリーとして再構成するのではない。より古く、より遠い別の物語の傍らに、あの夜を置く。

九面版は現在、香港の M+ のコレクションにある。作品は広く巡回し、2013年から2014年にかけてニューヨークの MoMA でも展示された。

女神、女優、都市

「Ten Thousand Waves」は三つの時間の層を編み合わせる。第一はモーカム。砂、闇、満ちてくる水。第二は媽祖の伝説。福建の漁師たちが、海に出る者を守ると信じる海の女神。マギー・チャンが媽祖を演じ、遅れて着いた人のように水の上に漂う。

第三は上海の映画。ジュリアンは、我が子を育てるために身を売る母を描いた呉永剛の1934年のサイレント映画『神女』(The Goddess)を再演出する。チャオ・タオがその女性を演じ、古い街路を歩き、やがてガラスの高層ビルの立つ現代の都市へと踏み出す。

層は筋によってはつながらない。繰り返し現れる像によってつながる。水、霧、灯り、ひとりで歩く女性たち。九つのスクリーンは暗い部屋に散らばって吊るされ、あるものは向かい合い、あるものは空間の中に浮かぶ。すべてを見渡せる一点はない。見る者は選ばねばならず、どの選択も何かを取りこぼす。

終わらなかった旅

ジュリアンは、セントルシアからイギリスへ渡った移民の子である。M+ はこの作品を、その歴史と、その後ヨーロッパへ到着した難民の波の傍らに置く。けれど「Ten Thousand Waves」は論評の声では語らない。距離によって語る。福建とイングランドの岸のあいだ、女神と誰にも守られなかった人々のあいだ、1934年の映画と今日の都市のあいだの距離。

題名もまたひとつの距離だ。一万の波。ひとつではない。数えきれない。どの波も、ひとりの人、ひとつの旅、故郷を離れるひとつの理由を運んでいる。

作品を見る者の中にとどめるのは、その遅さである。カメラは水に、顔に、山の霧にとどまる。語ることにも、説明することにも急がない。モーカムの死者たちは名前を返されない。けれど時間を返される。見られる時間、ニュースの一項目より長く思われる時間を。

部屋を出る見る者は、完全な物語を持ち帰らない。断片だけ。水の音、白い衣、夜の街路。生き残った人が、去った誰かの記憶を抱えるように。アイ・ウェイウェイの磁器のひまわりの種のように、この作品は、数字の背後に手があることを思い出させる。ひとり、またひとり。