エッセイ · デザインとしてのファッション

「MIYAKE ISSEY EXHIBITION: The Work of Miyake Issey」

MIYAKE ISSEY EXHIBITION: The Work of Miyake Issey.

平らな一枚の布。身体を待っている。

国立新美術館の「MIYAKE ISSEY EXHIBITION」。展示空間に並ぶ三宅一生の服


六本木の三つの部屋

「MIYAKE ISSEY EXHIBITION: The Work of Miyake Issey」は、2016年3月16日から6月13日まで、国立新美術館の企画展示室2Eで開かれた。美術館が公益財団法人 三宅一生デザイン文化財団、株式会社 三宅デザイン事務所、株式会社 イッセイ ミヤケとともに主催した。

展覧会は1970年から数えて45年にわたる三宅の仕事をふり返った。会場は三つの部屋に分けられ、吉岡徳仁と佐藤卓がデザインした。吉岡はこの展示のために「Grid Body」というマネキンをつくった。格子で組んだ人形で、なかに身体がまるごとなくても服が立つ。

その細部が展覧会全体をよく語っている。マネキンはモデルを演じない。ただの枠で、布が落ちる場所があれば足りる。来場者が見るのは服であって、人の姿ではない。

会期中には、三宅とともに働いた人たちとのトークや、プリーツや折りのワークショップが開かれ、なかには小学生向けのものもあった。ここで服は見るためだけのものではなかった。手で学べる技術だった。

タトゥーのジャンプスーツからプリーツ プリーズへ

第一部は来場者を1970年代へ連れ戻した。1970年のタトゥーのジャンプスーツは、第二の皮膚のように身体に沿う布に図像を刷った。1975年のリネンのジャンプスーツは逆へ向かった。ゆるく、平らで、ほとんど曲線がない。身体に沿うか、ゆるむか。その二つの方向が、彼の仕事全体を貫いている。

1984年には「Waterfall Body」。重力にまかせて布を落とし、布がほぼ自分でかたちを見つけるデザイン。つくり手は布を型に押しこまない。布が仕事の一部を担う。

そして1990年代、プリーツ。1993年、三宅は PLEATS PLEASE を発表した。その方法は習慣を逆さにした。服をまず裁って縫い、それから熱でプリーツをつける。だからプリーツはすべての縫い目に沿う。服は軽く、小さくたため、洗ってもアイロンがいらず、着る人とともに動く。

プリーツは飾りではない。構造である。平らな一枚の布が、一人ひとりに仕立てなくても多くの身体に合う。

A-POC と 132 5.

1998年、三宅はエンジニアの藤原大とともに A-POC を開発した。A Piece of Cloth の略。編み機が連続した筒状の布を編み出し、そこにはすでに服の輪郭が編みこまれている。着る人がその線に沿って切ると、ワンピースが、トップスが、靴下が現れる。縫製はわずかでいい。使う人が自分の服づくりに加わる。

2010年には 132 5. ISSEY MIYAKE。服は折り紙に近い平らなかたちにたたまれる。持ち上げると、量感のある服にひらく。平面から立体へ、そしてまた平面へ。服は二つの状態を生きる。

三つのプロジェクトは何年も離れているが、同じ問いを立てる。服はできるだけ少ない工程でつくれるか。布、熱、機械、着る人が、それぞれの役割を果たせるか。

その問いを立てたから、三宅はしばしばクチュリエというよりデザイナーと呼ばれる。彼はテキスタイルの技術と、エンジニアと、工場とともに働いた。美しさはあとから、結果として来た。

服の展覧会がデザインの展覧会のように読める理由

多くのファッション展は服を彫像のように演出する。強い照明、背の高いマネキン、劇的なポーズ。「The Work of Miyake Issey」は別の道を選んだ。格子のマネキンはほとんど消える。服は構造を調べる対象になる。プリーツがどう走り、布がどう折れ、どこに裁ち目があるか。

三つの部屋を歩くのは、展覧会というより研究室を抜けていくのに近かった。来場者が出会ったのは、半世紀近く、ひとつの考えを何度も試しつづけた人。一枚の布と、そのなかの身体。

三宅一生は2022年に亡くなった。ふり返れば、2016年の展覧会は彼の仕事を、ゆかりの深い都市、東京でひとつの線にまとめた。三宅を川久保玲や山本耀司と並べて見たい人は「Future Beauty」日本ファッションの30年を読むとよい。服は残る。アーカイブにたたまれ、ふたたびひらかれるのを待っている。


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