エッセイ · 現代アート
ジェームズ・タレル「Aten Reign」
James Turrell. Aten Reign.
光は物に落ちるのではない。光が物である。
Solomon R. Guggenheim Museum · Solomon R. Guggenheim Museum
空へ向けられた美術館
ニューヨークのソロモン・R・グッゲンハイム美術館のロタンダは、フランク・ロイド・ライトが設計した螺旋のスロープで、頂に天窓のある空っぽの中心をめぐっている。来場者はふつう上へ歩き、下を見る。絵は壁に沿って掛かり、中央の空洞は視線が通り抜けるだけの場所。
2013年の夏、6月21日から9月25日まで、ジェームズ・タレルはその向きを逆にした。「Aten Reign」は空洞そのものを作品にした。来場者は1階に立ち、上を見上げた。
頭上には、入れ子になった楕円の輪が連なり、それぞれ違う色調で、天窓へ向かって段をなして昇っていた。人工の光と日の光がひとつの容積のなかで混ざった。色はある色調から次の色調へゆっくり移ろい、はっきりした到達点はなかった。
美術館は「Aten Reign」を、この建物が経験したなかで最も劇的な変容のひとつと評した。それでも、その空間には見るための物は何も置かれなかった。展示されていたのは、すでにそこにあった空気と光だった。
スカイスペースとクレーター
タレルは1960年代後半から光を扱ってきた。よく知られた形式のひとつがスカイスペース。天井に開口のある部屋で、人は座り、枠にくっきり切りとられた空の一片を眺める。空は背景であることをやめ、手が届きそうな色の面になる。
グッゲンハイムは「Aten Reign」を、ライトの建築をスカイスペースとして読むものとして紹介した。自然への開かれ、曲線、空間の感覚はすべて保たれ、変わったのは見方だけだった。
作品はタレルの最大のプロジェクト、ローデン・クレーター(Roden Crater)も指し示す。アリゾナの砂漠にある死火山で、彼は1979年から、肉眼のための天文台へとそれを造りかえはじめた。そのプロジェクトはいまも完成していない。「Aten Reign」は、都市のまんなかの建物に置かれたその小さな版のように読める。
アテンという名は、古代エジプトで崇められた太陽円盤を思い起こさせる。人の姿をもたない神、ただの光の輪。タレルの作品も同じ。中心に何もない光の輪。
ひと夏に三つの展覧会
これはタレルにとって、1980年以来のニューヨークの美術館での展覧会だった。ロタンダの「Aten Reign」と並んで、タワー・レベルの展示室では、キャリアのほかの時期の作品が対位法のように展示された。
キュレーションはカルメン・ヒメネス(Carmen Giménez)とナット・トロットマン(Nat Trotman)で、ロサンゼルス・カウンティ美術館、ヒューストン美術館と共同で企画された。その夏、三つの都市の三つの美術館が、タレルの大きな展覧会を三つ開いた。
どの会場でも、問いはほぼ同じだった。絵画も彫刻も額も台座も取り去ったら、見るものとして何が残るか。タレルの答えは、見ることそのもの。
見ている自分を見る
「Aten Reign」では、目がつかまるものがない。鋭い輪郭も、物も、測りやすい距離もない。色はすぐ目の前に浮かんでいるように見えるが、実際には何階も離れている。
しばらくすると、自分が何を見ているのか確かでなくなる。この色は照明から来るのか、空から来るのか。あの輪は近いのか、遠いのか。その不確かさが素材である。タレルは光について物語を語らない。見る人が、自分の目がどう像を組み立てるかに気づくにまかせる。
だからこの作品には時間が要る。ひと目では美しい天井。長く見ていると、知覚についての問いになる。人びとは小さな新しい習慣を持ってロタンダを出た。見上げること、頭上の空間に注意を払うこと。
展覧会が終わると、輪は取り外され、建物は元に戻った。けれどそれ以来、中心の空洞を空っぽと見るのは難しい。「Aten Reign」の下に立った人は、そこがいつも満ちていることを知っている。ただ、目がめったに立ち止まらないもので満ちているだけ。自然光を扱う同世代のもう一人の芸術家についてはロバート・アーウィンと「untitled (dawn to dusk)」を読んでほしい。