エッセイ · 現代アート

ジョン・アコムフラ(John Akomfrah)。「Vertigo Sea」。

John Akomfrah. Vertigo Sea.

海は、人が忘れたいものを保っている。

ジョン・アコムフラ「Vertigo Sea」:横に並ぶ三つのスクリーン、海の映像と岸辺に立つ人物

© John Akomfrah · SFMOMA



三つのスクリーン、ひとつの水

「Vertigo Sea」は、ジョン・アコムフラが2015年に完成させた3チャンネルのビデオ・インスタレーションである。三つのスクリーンが横に並び、7.1チャンネルのサラウンド音響が部屋を満たす。上映時間は48分30秒。短めの長編映画に近い長さだ。

作品は2015年、ヴェネツィア・ビエンナーレで初公開された。2018年、三つの美術館が共同で収蔵した。サンフランシスコの SFMOMA、シカゴ現代美術館、ニューヨークのソロモン・R・グッゲンハイム美術館。海をめぐる作品が、何千キロも離れた三つの都市に分かち持たれている。

見る者はひとつの画面を見るのではない。どこを見るかを選ばなければならない。三つのスクリーンが三つの違う場面を映すときがある。ひとつの場面が三つにまたがって広がるときがある。二つが静止し、三つめだけが動くときもある。目は決して全体を一度にとらえられない。

自然の映像と歴史の断片

「Vertigo Sea」の海の映像の多くは、BBC の自然史アーカイブから来ている。テレビの視聴者がよく知る映像だ。きらめく魚群、岩に砕ける波、漂う極地の氷。アコムフラはそれを別の素材と並べる。捕鯨、産業化された漁業、移民を運ぶ船。

アーカイブの断片のあいだに、彼自身が撮った場面が挟まれる。18世紀の衣装をまとった人物が岸辺にじっと立ち、水と向き合う。岩の上には、打ち上げられたかのように、いくつかの物が散らばっている。これらの場面は物語を語らない。証人のように立っている。

映像の下には、海をめぐるテキストを読む声が流れる。そのなかにはハーマン・メルヴィルの「Moby-Dick」や、ヒースコート・ウィリアムズの長詩「Whale Nation」がある。彼のギャラリーはこの作品を、ラルフ・ウォルド・エマーソンが崇高な海と呼んだものの探究だと説明している。ここで崇高とは、二つの意味をもつ。圧倒的に美しく、圧倒的に恐ろしい。

題も同じことを言っている。vertigo とは、大きすぎるものの前に立ったときのめまいである。

ディアスポラの記憶を撮る映像作家

アコムフラはガーナのアクラに生まれ、イギリスで育った。1982年、ロンドンで Black Audio Film Collective を共同設立した。イギリスにおける黒人の暮らしを映画にするグループである。最初の映画、1986年の「Handsworth Songs」は、1985年にバーミンガムとロンドンで起きた暴動を振り返った。のちにデイヴィッド・ローソン、アシュティ・アコムフラとともに Smoking Dogs Films として活動した。

彼が40年にわたって追ってきたものは、いくつかの言葉に収まる。記憶、ポストコロニアル、時間、移民共同体の暮らし。彼はしばしばアーカイブを用い、既存の映像を組み立てて、それらが最初に語ったのとは別のことを語らせる。

「Vertigo Sea」では、海がこれらの歴史の出会う場所になる。奴隷にされた人々を乗せて大西洋を渡る船。人々を故郷から別の岸へ運ぶ船。捕鯨船。すべてが同じ水面を動いていく。アコムフラはひとつの悲しみを別の悲しみより上に置かない。それらを並べ、継ぎ目を見る者に見つけさせる。

なぜ心に残るのか

「Vertigo Sea」は見るのがつらい作品だ。長く、美しく、そしてその美しさのただなかで人を落ち着かなくさせる。深みへ潜る鯨に、息をのむこともある。次のショットは、水に広がる血かもしれない。

その居心地の悪さこそ、作品が保とうとするものだ。いちばん心を和ませる自然の映像も、誰も語りたがらない物語と同じ水に浮かんでいることを思い出させる。海はそれらを分けない。分けるのは、人が選ぶ見方だけである。

杉本博司の静かな海景とは遠く隔たっている。そこでは水と空がひとつの水平線に還元される。アコムフラでは、水面にはいつも人が、船が、血がある。何年経っても、大規模なビデオ・インスタレーションが語られるとき「Vertigo Sea」の名が挙がる。答えを差し出すからではない。これほど多くの重いものをひとつの部屋に入れ、それらに息をさせるからだ。