エッセイ · 現代アート
Joseph Kosuth. Clock (One and Five), English/Latin Version.
物と、その像と、その名は同じではない。
Tate · Tate
壁の上の一本の横線
作品は長さ三メートル近く、高さ約六十センチ。テートの記録によれば、時計、紙に焼かれたカラー写真、印刷された紙からなる。すべてが一本の横線に並べられている。壁を横切って書かれた一文のように。
ある地点に本物の時計が掛かっている。オフィスや教室にあるような時計だ。その横に、同じ時計の写真。続いて、拡大された辞書の定義。副題の「English/Latin Version」は、文章が英語とラテン語の両方で示されていることを告げている。
何も描かれていない。何も造形されていない。作家の手の痕跡はどこにもない。作品のどの部分も、買える物、写真に撮れる物、辞書で引ける物である。
ジョセフ・コスース(Joseph Kosuth)がこの作品を作ったのは1965年、二十歳ほどのときだった。テートは1974年にこれを購入した。美術館は1965年と1997年の日付を持つ展示用バージョンも所蔵している。小さな細部だが、多くを語る。作品は作り直すことができる。大切なものは、どれかひとつの物のなかにあるのではないからだ。
どの時計が時計なのか
その線の前に立つと、見る者は選ぶよう迫られる。本物の時計はもちろん時計だ。だが写真もまた時計である。私たちが絵を指して「あれが時計だ」と言うような意味で。そして定義は第三の意味での時計だ。色も大きさもない、誰もの頭のなかにある時計。
タイトルは数える。ひとつ、そして五つ。ひとつの物と、それが示されうる仕方。コスースはそれらに順位をつけない。どのバージョンがより本物かを決して言わない。ただ並べて置き、隔たりが現れるにまかせる。
同じ年、彼は同じ構造で「One and Three Chairs」を作った。木の椅子、その写真、そしてその語の定義。椅子のほうがよく知られている。だが時計を選ぶことで、層がひとつ加わる。椅子はただそこに立っている。時計は時間を示すために存在する。
写真は時計をただ一つの時刻、シャッターが切られたその時刻にとどめる。辞書の定義はどの時刻にも属さない。本物の時計だけが部屋とともに古び、塵を集め、見る者が立つ午後を分かち合う。ひとつの物の三つのバージョン、時間との三つの異なる関係。
アイデアが作品であるとき
コスースは、1960年代後半にコンセプチュアル・アートを形づくった人物のひとりである。1969年、彼はエッセイ「Art after Philosophy」を書き、芸術は自らを問うべきだと論じた。芸術とは何か、芸術はどのように意味を生むのか。
「Clock (One and Five)」は物で組み立てられた問いである。美しいと思われることを望んでいない。私たちがどのように物を認識するのかを、見る者に考えさせようとする。私たちは時計を目で知るのか、写真で知るのか、言葉で知るのか。「時計」という言葉がなかったら、それでも時計が見えるだろうか。
ラテン語が問いを深める。今日の見る者の多くはラテン語を読めない。定義はそこに完全にあるのに、彼らにとってはただの文字の形になる。透明だと思い込んでいる言語が、解読されるべき物に変わる。
半世紀以上たったいま、この作品は奇妙なほどたやすく読める。私たちはいま、物そのものより物の写真を見ることのほうが多い。何かに触れる前に説明を読む。コスースの一本の線は、もはや哲学の演習ではない。ありふれた一日に似ている。写真と言葉を信じ、すぐ隣に掛かっている本物の物を忘れる一日に。
なぜ時計はいまも掛かっているのか
この系統の作品はよく乾いていると言われる。色もなく、感情もなく、議論だけ。だがその前で、見る者はとても身体的なことをしている。目が時計と写真のあいだを行き来し、違いを探している。
その動きこそが作品だ。コスースは時間についての物語を語らない。見る者に、比べ、読み、疑うことに時間を使わせる。もうひとつの時計、クリスチャン・マークレー(Christian Marclay)の「The Clock」は、実際の時間に合わせて二十四時間の映像を組み上げる。コスースは逆をする。実際の時間をその像とその名から引き離し、三つを並べて掛ける。