エッセイ · 写真

リー・フリードランダー「Self-Portraits」。

Lee Friedlander. Self-Portraits.

画面の中央に立たずに、そこにいる。

リー・フリードランダー「Self-Portraits」:街の光景に落ちる写真家自身の影を写した白黒写真

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写真家が画面に入る

リー・フリードランダー(Lee Friedlander)は1934年にアメリカで生まれた。20世紀後半のもっとも重要なストリート写真家のひとり。写真の多くはアメリカの暮らしを写す。店先、看板、車、物が幾重にも重なりあう街角。

1960年代のはじめから、彼は体系的に試みた人がほとんどいないことを始めた。自分を写真のなかに入れること。ふつうの肖像のようにカメラを自分の顔に向けるのではなく、もっと静かなやり方で。

彼の影が歩道に、芝生に、家の壁に、ときに前を歩く女性の背中に落ちる。彼の姿がショーウィンドウに、バックミラーに、ホテルの部屋の鏡に映る。ときには身体の一部だけが、画面の縁にすべりこむ。

ふだんは写真の外にいる写真家が、構図の一部になる。街灯や看板より目立つことはない。光景のなかの、もうひとつのかたちにすぎない。

1970年の一冊

1970年、フリードランダーは自身の出版社 Haywire Press から「Self Portrait」を刊行した。彼の最初の写真集。四十点を超える白黒写真を収め、その多くは1960年代に撮られたもの。デザインはフリードランダーがマーヴィン・イスラエル(Marvin Israel)とともに手がけた。

写真集はコネチカットの Meriden Gravure Company によって丁寧に印刷された。リチャード・ベンソン(Richard Benson)が制作したダブルトーンの分解版から。ゼラチン・シルバー・プリントの灰色は、ページの上に保たれた。

写真はアメリカ各地で撮られた。ニューヨーク、ニューオーリンズ、シカゴ、コロラド、フロリダ、ウィスコンシン、ケンタッキー、ケープコッド、そしてルート9Wやパリセーズ・パークウェイといった道路沿い。場所ごとに違う光景、それでも写真家はいつも画面のどこかに潜んでいる。

全体として見ると、この本は、どこにでもいて、どこにもいない誰かの気配を伝える。通りすぎ、影を残し、先へ進む。

おかしくて、まじめ

セルフポートレートの多くには、乾いたユーモアがある。フリードランダーの影が見知らぬ人の背中にぴたりと落ち、二人がつながっているかのよう。彼の映りこみが、陳列された商品のあいだのショーウィンドウにすべりこむ。見る者は、ちょうどよい瞬間にとらえられた偶然に微笑む。

ユーモアの裏には、写真にとってまじめな問いがある。写真家は、写されるものに対してどこに立っているのか。写真はしばしば、写真家などいないかのように、光景がただ現れたかのようにふるまう。フリードランダーはそのふりを拒む。自分はいつもそこにいて、いつも光景の一部だと示す。

彼はまた自分を引き立て役として使う。自分の影を他人のそばに置くことで、ひとつの層が加わる。写真家は見ていて、見ているところを見られている。

これは、同じく影と映りこみに満ちたヴィヴィアン・マイヤーのセルフポートレートに通じる。けれどもマイヤーの写真は、死後になってはじめて知られた。フリードランダーは早くから、自分の仕事の公然とした一部としてそれを発表した。

六十年あまり

フリードランダーは1970年の本のあとも止まらなかった。六十年以上にわたって自分を撮りつづけた。後年の写真では、ときに顔がよりはっきり写り、ときに老いが、ひとつの生の段階が写る。

彼を扱うフランケル・ギャラリーは、このシリーズを、仕事と私生活と創作の生が織りあわされたものと評する。彼は働きながら、旅をしながら、家にいながら撮った。カメラはいつも彼とともにあり、彼はいつもそのなかにすべりこんでいた。

まとめて見ると、「Self-Portraits」はふつうの意味での肖像ではない。フリードランダーがどんな姿で、何を考え、何を感じるかを語らない。語るのはもっと単純なこと。彼はここにいた、ここにも。何十年にもわたって引きのばされた、存在の記録。