エッセイ · 写真
山本昌男(Masao Yamamoto)。「A Box of Ku」。
Masao Yamamoto. A Box of Ku.
写真は、手に持つことができる。
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小さな写真の箱
山本昌男は1957年、愛知県蒲郡市に生まれた。写真に転じる前は油彩を学んだ。その画家は、一枚一枚のプリントの扱い方にいまも見てとれる。
「A Box of Ku」は1980年代後半に始まり、三十年以上続けられたシリーズである。写真にはタイトルがなく、番号だけがある。#3、#154、#715。数は数百に及ぶ。ポートフォリオというより、ノートに近い。
シリーズのタイトルには Ku という語が含まれる。日本語で「くう」と読む漢字「空」は、空を意味し、同時に空っぽであることも意味する。空を収める箱。謎かけのように聞こえるが、写真を見ると、謎はおのずと解ける。
物としての写真
山本のプリントは小さい。多くは手のひらに収まる。モノクロのゼラチン・シルバー・プリントだが、暗室から出てきたままにはしない。
調色し、絵具をのせ、古びさせ、縁をすり減らし、軽く折る。金の斑点をもつものもある。何度も開いては閉じた手紙のような折り目をもつものもある。だから同じネガからでも、一枚一枚が異なる。彼は、どの写真も固有の生をもつ唯一の物であってほしいと考える。
プリントははじめ木の箱に収められ、見る人は手に取って裏返すよう促された。写真は、ガラスの向こうに掛けられるだけのものではなくなる。引き出しにしまわれた古い家族のスナップのように、ふたたび物になる。
展示のとき、山本はプリントをまっすぐな列に掛けない。高く、低く、間隔を変えて壁に散らし、そのあいだに白い壁を大きく残す。掛けるたびに新しい構成になる。プリントのあいだの余白も作品の一部である。
写真の俳句
山本について書く人は、しばしば彼の写真を視覚の俳句と呼ぶ。その比較にはうなずける。俳句はとても短い詩で、観察の一瞬を記録し、しばしば季節や自然と結びつき、意味の大半を言葉の外に残す。
山本の写真も同じことをする。写っているものは簡素だ。裸の枝。電線の鳥。石。水面。人の背中の一部。物語も主人公もない。見られた何かと、そのまわりのたっぷりとした静けさだけ。
一枚ずつなら、それぞれが短い詩。集まると、見る人が自分の順序で読む詩集になる。山本は順序を押しつけない。箱はどんなふうに開けてもいい。
小さなものがなお大切な理由
現代写真は、写真をどんどん大きくしてきた。壁の大きさでプリントし、展示室で絵画と張り合うために。山本は逆へ向かう。彼のプリントは小さく、見る人は近づかなければならない。そして近くで、大きなプリントが見せないものが見える。紙の表面、時間の跡、折り目。
それは世界の見方でもある。小さなもの、静かなもの、見落とされやすいものへの注意。一羽の鳥。一枚の葉。水面のきらめき。どれも大切であるために、引き伸ばされる必要はない。
反対の端には、海を広大で平らな空白として撮る杉本博司がいる。二人の日本の作家、二つのスケール、一つの確信。空白は欠如ではない。見る人が入っていくための余地である。
「A Box of Ku」はそんな箱だ。開けると、いくつかの小さな像が見える。けれど本当に手にしているのは、そのあいだの空白である。