エッセイ · 現代アート
レベッカ・ホルン(Rebecca Horn)。「Concert for Anarchy」。
Rebecca Horn. Concert for Anarchy.
秩序を失ったときにだけ語る楽器。
Tate · Tate
逆さのピアノ
「Concert for Anarchy」は1990年につくられた。作品を所蔵するテートは、素材を一行で記す。ピアノ、油圧シリンダー、コンプレッサー。三つだけ。
ピアノは本物の黒いグランドピアノ。コンサートホールにあるようなものだ。けれど三本の脚では立っていない。天井から逆さに吊られ、腹を上に向け、鍵盤は見る人のほうへ傾いている。その姿は、脚を縛られて吊り上げられた動物のように見える。
やがて、沈黙のあと、内部の油圧装置が動きはじめる。蓋が跳ね開く。鍵盤が滑り出し、口から突き出された舌のように鍵が下を向く。同時に、どの旋律にも従わない崩れた和音が鳴る。数秒後、すべてが引き戻される。蓋が閉じる。部屋はまた静かになる。
動きは間隔をおいてくり返される。誰も鍵を押さない。楽譜もない。音は、機械が自らを乱した結果にすぎない。
身体をもつ機械
レベッカ・ホルンは1944年、ドイツに生まれた。1970年代初め、身体に着けるもので知られるようになった。仮面、ばかげたほど長い指をもつ手袋、手足を延長する布と羽根の枠。それらは着ける人を強くし、同時に不器用にした。より遠くへ届き、より縛られる。
しだいに人の姿は作品から消えたが、身体の感覚は残った。ホルンの機械は羽ばたき、叩き、震え、開き、閉じる。テートはそのいくつかを所蔵している。「Ballet of the Woodpeckers」や「Mechanical Body Fan」といったタイトルだ。ロボットではない。むしろ、癖をもった生き物に近い。
「Concert for Anarchy」はその系譜に属する。ピアノは人を表してはいない。それでも身体のようにふるまう。休む。痙攣する。叫びを上げる。回復する。
ピアノは、芸術家が選びうる最も規律正しい物かもしれない。何年もの練習、ブルジョワの客間、静まり返ったコンサートホールを背負っている。それをひっくり返すことは、そうした習慣もひっくり返すことになる。
予定された混沌
タイトルは逆説である。コンサートは、この世で最も整えられたものの一つだ。開始時刻、曲の順番、じっと座る聴衆。アナーキーはその反対。ホルンは二つの言葉を並べ、ピアノに両方を抱えさせる。
ここでは混沌もまたプログラムされているからだ。コンプレッサーが満ち、シリンダーが押し、そして引く。噴出は計画された出来事である。いつ来るのかを知らないのは、見る人だけ。制御を失ったように見えるものは、実は別の、より静かな制御だとわかる。
耳ざわりな音はピアノを傷めない。噴出のたびに元の形に戻り、次に備える。崩壊に終わりはない。それはリズムになる。呼吸や脈拍のように。
その下に立つ人が聴くのは、音楽作品ではない。物が少しだけばらばらになることを許され、また自らをまとめ直す、その瞬間を聴く。
なぜ残るのか
キネティックな作品の多くは、最初は驚かせ、やがてくり返される仕掛けになる。「Concert for Anarchy」が違うのは、動きと動きのあいだの沈黙が、動きそのものより長いからだ。作品は観客に待つことを教える。
待つあいだ、人はより注意深く見る。艶のある黒い塗装。ケーブル。床に落ちるピアノの影。これほど重いものが宙に吊られているという事実。そして吊られていること自体が、すでに一種の緊張であること。
ホルンはピアノが何を意味するかを説明しない。一つの身振りをくり返すだけだ。開く、叫ぶ、閉じる。見る人は残りを自分の記憶で埋める。堅固に見えた何かが、ふいに内側を見せた瞬間の記憶で。
ふつうの仕方で弾かれなくなった楽器は、それ自体の重みを運ぶ。別の場所では、スーザン・フィリップスが戦争で傷ついた楽器の音を録音した。ホルンはピアノを無傷のまま残し、その秩序だけを取り去る。