エッセイ · 写真
リチャード・リーロイド「Nature Morte」
Richard Learoyd. Nature Morte.
切り花はまだ生きている。去っていく途中なだけ。
Fraenkel Gallery · Fraenkel Gallery
部屋ほどの大きさのカメラ
リチャード・リーロイドはカメラを手に持たない。カメラの中で仕事をする。2003年から、スタジオにある部屋ほどの大きさのカメラ・オブスクラを使っている。レンズを備えた蛇腹でつながれた二つの部屋。被写体は一方の部屋に座る。印画紙はもう一方の部屋で、暗闇の中、待っている。
カメラ・オブスクラは古い原理だ。小さな穴から暗い部屋に入った光が、向かいの壁に外の世界を描き出す。写真が生まれる前から、画家たちは何世紀もそれを使ってきた。リーロイドは原理をそのままに、壁を一枚の感光紙に置き換える。
紙はイルフォクローム(Ilfochrome)、ダイレクトポジのカラー印画紙。被写体からの光がそこに当たり、その場で像になる。あいだにネガはなく、デジタルファイルもなく、同じ二枚目を刷る方法もない。一枚一枚が、ただひとつの物。
仕上がりには粒子がなく、細部は信じがたいほど鋭い。花びらの葉脈が、目の前にかざしたように現れる。それでいて、その明晰さは冷たくない。古い油彩画の深みがある。
暗い部屋の花
リーロイドは人も、物も撮る。Fraenkel Gallery が「Nature Morte」の題で紹介する花の写真には、2018年から2026年までの作品が含まれる。ケシ、チューリップ、ピンクのユリ、ヒマワリ。何が写っているかを率直に告げる題もある。Live and dead poppies、生と死がひとつの画面に。
ある写真では、花が支えの上に横たえられ、患者のように身を起こされている。別の写真では、ケシが光を返さない暗い鏡のそばにある。また別の写真では、大きなヒマワリが重い頭を垂れている。額装すると一枚はおよそ1メートル幅、花を実物大かそれ以上に見せるのに十分な大きさ。
二つか三つのヴァリアントがある作品もある。複製ではない。露光のたびに少しだけ変わった花と出会い、紙はその瞬間だけを記録する。
生きている、けれど褪せていく
ギャラリーの文章は、リーロイドの追うものをこうまとめる。切り花は生きているが、すでに朽ちはじめている。彼のスタジオの写真は、その理解を、生のもろい美しさとその終わりの確かさを、運ぼうとしている。
聞き慣れた主題に聞こえる。それを変えるのは工程だ。花は明るい部屋でレンズの前にひとり立ち、紙は暗い部屋で待つ。じっとしているあいだにも、花はしおれていく。プリントが記録するのは、凍りついた花ではなく、二つの状態のあいだにある花。
ネガがないので、この写真はもう一度つくれない。あの花は褪せた。あの日の光は去った。残るのは、かつて暗闇の中で花と向き合っていた一枚の紙。写真は被写体と運命をともにする。一度しか起こらない。
だからだろうか、リーロイドの花は悲しげに感じられない。花は注意を求める。大きなプリントの前に立ち、ケシの花びらの縁がしわみはじめるのを見ていると、ふだん花をこれほど長く見ることはめったにないと気づく。写真は褪せていくのを遅らせない。それを見るのに十分な時間をくれる。