エッセイ · 写真

リネケ・ダイクストラ(Rineke Dijkstra)「Beach Portraits」

Rineke Dijkstra. Beach Portraits.

海と空のあいだに、隠れる場所はない。

リネケ・ダイクストラ「Beach Portraits」。海と空を背に、水着姿でひとり浜辺に立つ十代


ひとりの人、ひとつの浜辺

1992年6月24日、サウスカロライナ州ヒルトンヘッド島で、リネケ・ダイクストラは水着姿でひとり砂の上に立つ十代を撮った。ひと月後の1992年7月26日には、ポーランドの海辺の町コウォブジェクで別の十代を撮った。どちらも、その夏に始まった「Beach Portraits」に属する。

続く数年、ダイクストラはポーランド、クロアチア、ウクライナ、ベルギー、イングランド、アメリカ合衆国の浜辺を訪ねた。どこでも同じことをした。十代のひとりに、海を背にしてカメラの前に立ってもらい、全身を撮る。

構図はほとんど変わらない。被写体は中央に立つ。背後には三つの水平の帯。砂、水、空。ほかには何もない。写真は大きくカラーでプリントされ、多くは約117×94センチ。見る人が、人の前に立つように像の前に立つほどの大きさだ。

まだ立ち方を知らない身体

まず目につくのは、ぎこちなさだ。この十代たちは手のやり場を知らない。片足が内に向く。片方の肩が少し上がる。手が布をつかむ。彼らは思春期にいる。身体が、慣れるより速く変わっていく時期に。

ダイクストラは、彼らがくつろぐのを待たない。自然な瞬間をとらえるのでも、見栄えのするポーズを組むのでもない。ただ立たせ、自意識がいちばん見えるときを待つ。その目はレンズと向き合う。用心深く、同時に好奇心をもって。

カメラは少し低い位置にある。空を背にした小さな身体が、記念碑のような存在感を帯びる。その対比が、このシリーズの強さだ。目に見えて不安げな、ありふれた若者が、突然、古典的な肖像画の重みをもって見られる。

私的な物語はない

ダイクストラの背景は、つねに中立だ。被写体の私生活を見せすぎると、見る人はすぐに憶測を始める、と彼女は説明している。海と空は共有された地であり、ポーランドでもアメリカでもほとんど変わらない。

そのおかげで、小さな違いが前に出てくる。水着の形。日焼けの色。髪のまとめ方。見る人は比べはじめる。分類するためではなく、違いの下に同じ不安があることを見るために。コウォブジェクの十代も、ヒルトンヘッドの十代も、同じ口にされない問いを抱えてカメラの前に立つ。自分はどう見えているのか。

この方法は、ダイクストラの仕事全体を貫いている。出産から数分後の母親たち、闘いを終えたばかりの闘牛士たちを撮り、ボスニアから来た若い難民アルメリサ(Almerisa)をオランダで何年も追った。いつもひとりの人。移り変わりの瞬間に、まっすぐカメラを見ている。

なぜこれらの写真はいまも立っているのか

2012年、サンフランシスコ近代美術館とソロモン・R・グッゲンハイム美術館は、リネケ・ダイクストラの回顧展を企画した。約70点の写真と五つの映像作品。その中心には「Beach Portraits」があり、いまも彼女の名と最も結びついたシリーズである。

被写体がカメラに向き合い、身を隠すものが何もない正面の肖像は、写真の強い伝統だ。ダイアン・アーバスも人を正面から撮ったが、しばしば社会の周縁にいる人を求めた。ダイクストラが選んだのは、いちばんありふれた場所にいる、いちばんありふれた若者だった。夏の浜辺。

そのありふれていることが、写真を忘れがたくする。誰もがある年齢で、手をどうしていいかわからずに、あんなふうに立ったことがある。「Beach Portraits」は、私たちの多くが忘れてしまった瞬間を保っている。