エッセイ · 写真

ウタ・バース(Uta Barth)。「Ground」。

Uta Barth. Ground.

何もない空気に焦点を合わせた写真。

ウタ・バース「Ground #42」:青緑の壁、二つの小さな額、木のたんすの縁が写る、ぼやけた部屋の一隅

Whitney Museum of American Art · Whitney Museum of American Art



主題のない、部屋の一隅

「Ground #42」は小さな写真である。約28×27 cm、厚さ5 cm近いパネルに貼られたカラープリントで、壁に掛かると一枚の紙というより物に近い。1994年。ニューヨークのホイットニー美術館が、写真委員会の資金でコレクションに加えた。

写っているのは、人の暮らす部屋の一隅。青緑に寄った緑の壁。左上に小さな額が二つ。右にはたんすの一部。人はいない。出来事もない。そしてシャープなものは何もない。

写真に慣れた人なら、技術的な失敗を思うだろう。手ぶれ、ピンぼけ、急いだ手。だが「Ground」は失敗した写真ではない。きわめて精確に焦点が合っている。ただ、何もない一点に。

何もない空間に焦点を合わせる

ウタ・バースの方法はほとんど単純すぎる。カメラを据え、部屋の中央の何もない一点、ふつうならモデルが立つ場所に焦点を合わせる。モデルは来ない。焦点がそこにあるので、その向こうのものはすべてぼやける。壁も、額も、たんすの縁も。

結果は、背景だけでできた写真である。ふだんは主題を際立たせるために後ろへ退けられるものが、いまは画面全体を満たす。バースについて書く人々はよく、彼女は部屋の壁よりも部屋の容積を、物よりも空気を撮るのだと言う。

主題が取り除かれると、目には休む場所がない。手がかりを探して後ろへ滑り、容れ物そのもの、つまり部屋こそが示されているのだと気づく。写真は、特定の場所についてよりも、写真がどう働くかについての言明になる。

一つの細部が、「Ground」シリーズをさらに静かにする。この時期についての記述によれば、最初の室内写真の多くはロサンゼルスの展示空間のなかで撮られ、写したその壁そのものに掛けられた。来場者は部屋に立ち、柔らかくぼやけたその部屋の写真を見た。

目の端で見る

見るとは、まっすぐ前を見ることだと私たちは思いがちだ。けれどたいていの時間、世界は目の端を通って届く。テーブルがどこにあるか、窓がどこにあるか、見なくてもわかる。その周縁はぼやけていて、細部がなく、ほとんど撮られることがない。

バースはそのぼやけを中心へ移す。物語は語らず、愛すべき顔も、欲しくなる物も差し出さない。差し出すのは見ることの条件だけだ。壁の光、部屋の奥行き、誰かがいまここにいたという感覚。

これらの写真はしばしば、記録写真よりも色と光による絵画の伝統に近いところに置かれる。抽象を思わせながら、ごく現実の部屋から生まれている。杉本博司の劇場が一枚の白いスクリーンに行き着くのと同じように。焦点を数十センチずらせば壁がくっきり現れ、部屋はふつうの部屋に戻るだろう。

「Ground」のあと、バースはのちのシリーズでもこの道を歩みつづけた。いつも自宅の壁、窓、日だまりのまわりで。問いは変わらなかった。写真は、見られるものだけでなく、見るという行為を示せるのか。

ぼやけた写真が心に残る理由

「Ground #42」には語り直すものが何もない。誰かに見に行きたいと思わせるように電話で説明することは誰にもできない。けれどその前に立つと、目が何をしているかに気づきやすい。焦点を探し、つかめず、やがて色と光とともにとどまることを受け入れる。

それはまれな注意の瞬間である。どこへも導かれず、何を感じるべきかも告げられない。部屋の一隅と、そこにいる時間がある。バースの提案はつつましい。いつも身のまわりにあるものに、習慣のなかへ消えてしまう前に気づくこと。