エッセイ · 現代アート
スティーヴ・マックイーン「Bear」。
Steve McQueen. Bear.
沈黙の中で、私たちは自分の息を聴く。
Tate · Tate
二つの体、ひと筋の光
「Bear」はスティーヴ・マックイーンの最初の主要な映像作品で、1993年につくられた。16mmフィルム、白黒、無声で撮影され、投影のためにビデオへ移された。1996年、テートが Patrons of New Art の寄贈により収蔵した。
映像は二人の裸の男を映す。一人はマックイーン本人。二人はからかい、つかみ合い、組み合い、それから立って見つめ合う。出会いは優しさと攻撃性のあいだで揺れる。言葉はない。凝視、一瞥、目くばせだけ。
テートはその視線のやりとりを、誘惑と威嚇の視覚言語と説明する。見る者は、それがどちらの言語なのか確信できない。おそらく両方。
手としてのカメラ
「Bear」は映画の習慣に逆らって始まる。状況を示すショットもなく、場所の感覚もない。最初のフレームは男の肩のクローズアップ。カメラはゆっくりと右上へ顔を横切っていく。肌の上を手探りしているように思えるほど近く。
1分もしないうちに、そのゆっくりしたリズムは崩れる。二人はスパーリングし、かわし、互いのまわりを回る。ひと筋の光の中を動く。ときに光は肌の汗にきらめく。ときに二人を影に投げ込む。ときにレンズを正面から打ち、見る者の目を一瞬くらませる。
絡み合う二つの体を下から見上げるショットもあり、抽象に近づく。手足と影だけ。終わり近く、カメラのまわりを回り、挑み、かわす足のシークエンスは、エドワード・マイブリッジ(Eadweard Muybridge)の19世紀の運動研究を思わせるリズムで編集されている。ここに初期映画へのマックイーンの関心が表れる。
一枚の壁、磨かれた床
「Bear」がどう展示されるかも作品の一部。映像は黒い部屋の壁一面を床から天井まで満たす。床は高く磨かれ、映像はそこにも映り込む。画面の外に立てる場所はない。
壁の上の二つの体は実物より大きい。見る者はその下に、体とその反射のあいだに立つ。マックイーンは、見る者が受け身の観客ではなく参加者として、起きていることに本当に巻き込まれてほしかったと説明した。
沈黙は意図されたもの。感情を導く音楽もなく、打撃を告げる音もない。マックイーンは、部屋に入る人が見ながら自分自身に敏感になることを望んだ。その部屋で聞こえる唯一の音は呼吸で、それは見る者自身のもの。
語られないもの
「Bear」はあからさまに政治的ではない。スローガンもなく、注釈もない。それでもテートは、多くの見る者にとって、この作品が人種、同性愛的なエロス、暴力をめぐる繊細な問いを呼び起こすと記している。闇の中で組み合う二人の裸の男を、部屋が見つめる。見る者はそれぞれ、すでに考えていることを持ち込む。
映像が何も言わないから、見る者は自分の思いに耳を澄ますしかない。それが作品の本当の圧力。映像の中の視線が、外にいる者たちへ向き返る。
マックイーンの初期の映像作品と同じく、「Bear」は白黒。その頃、何人かの英国のアーティストがセルロイドのそばにとどまった。のちにタービン・ホールのために「FILM」をつくったタシタ・ディーンもその一人。「Bear」でフィルムはノスタルジーではない。光が肌に触れ、見る者が触れられたと感じるための方法。