エッセイ · 近代美術
イヴ・クライン「IKB 79」。
Yves Klein. IKB 79.
何にもしがみつかない色。
Tate · Tate
一枚のカンヴァス、ひとつの色
「IKB 79」は縦長の長方形で、高さ約140センチ、幅120、奥行き3。正面全体が深い青で覆われている。縁取りも、筆跡も、正面の署名もない。
裏面にはクライン個人の印である八芒星と、IKB 79 の文字がある。Tate によれば、その書き込みはクラインの手によるものではない。タイトルは彼の死後につけられた。
クラインは短い生涯のうちに、二百点近くの青のモノクロームをつくった。1962年6月、三十四歳で亡くなった。彼はそれらに題をつけなかった。死後、未亡人のロトラウト・クライン=モケ(Rotraut Klein Moquay)が、知られているものすべてに IKB 1 から IKB 194 まで番号をふった。制作順ではない。のちに見つかったものにも IKB の番号が与えられた。
1974年、ロトラウトは Tate の絵を調べ、「IKB 79」は1959年、西ドイツのゲルゼンキルヒェンで、彼女がクラインと共にいたときにつくられた似た作品約四点のうちの一点だろうと、かなりの確信をもって書いた。Tate はこの作品を1972年に購入した。
男の名をもつ青
IKB は International Klein Blue の略。独特のウルトラマリン。1957年、クラインはこれを商標として登録した。同じ年、いわゆる青の時代が始まり、彼は亡くなるまで青のモノクロームをつくり続けた。
クラインは、この青には純粋な空間に近い質があると考えた。見えるものや触れられるものを超えた、非物質的な価値と結びつけた。1957年、ミラノのガレリア・アポリネール(Galleria Apollinaire)での個展の案内状は、IKB を、あらゆる機能的な理由から自由な、それ自体としての青と呼んだ。
彼は1940年代末からモノクロームをつくっていた。絵画は何かを表さなければならない、という考えを拒み、それによって創作の自由に至るための方法として。初期のものは表面にむらがあり、波打っている。「IKB 79」のような後期のものは、はるかに細やかで均一。
まだ濡れているような顔料
クラインの問題は顔料だった。粉のウルトラマリンは明るく深い。油やふつうの展色剤と混ぜると、くすむ。クラインは、粉の輝きを完成した絵の中に求めた。
1957年ごろ、彼は方法を得ていた。カンヴァスや綿の寒冷紗を、カゼインで処理した木の支持体に張る。カゼインは乳のタンパク質で、絵具の定着を助ける。その上に、ローラーで、グワッシュに近い工業用の青い絵具を塗る。揮発性の高い定着剤を混ぜたもの。
絵具が乾くと、定着剤はほとんど蒸発している。顔料は表面の上に浮かんでいるように見え、ビロードのようで、説明しがたい深さがある。「IKB 79」の近くでは、絵具の層は見えない。底のない青が見える。
写真がいつもこの作品を捉えそこなうのも、そのため。画面も紙も、あの粉っぽさを保てない。「IKB 79」が何であるかを知るには、その前に立つしかない。
同じ十一枚の絵
1957年のミラノで、クラインは同じに見える十一枚の青い絵を掛けた。それぞれ値段が違った。青も処理も同じだが、それぞれに固有の本質と雰囲気がある、と彼は言った。彼をもっとも驚かせたのは買い手たちだった。それぞれのやり方で選び、求められた値段を払った。
Tate は、非物質的な空間の区画を金と引き換えに売るといったクラインの行為の多くが、精神的なものと商業的なもののあいだの細い線の上を歩いていたと記している。モノクロームはおそらく、精神的な実践であり、同時に売るための物でもあった。
クラインはフランスのヌーヴォー・レアリスム(Nouveaux Réalistes)に属していた。イタリアのピエロ・マンゾーニと同じく、マルセル・デュシャンの大胆さと機知を受け継いだ。彼らは問うた。作品の価値はどこにあるのか。物か、考えか、作家か。
「IKB 79」は答えない。ただそこに立っている。青く、黙って。そして見る人は、ミラノの買い手たちのように、自分が何を見るかを決める。