エッセイ · 現代アート

テッチン・シェイ「One Year Performance」

Tehching Hsieh. One Year Performance.

一時間ごとに一打刻。髪は二つめの時計。

テッチン・シェイ「One Year Performance」。タイムレコーダーの横に並ぶ作業服姿の自画像の列。髪が少しずつ長くなる

Tate · Tate



一年間、一時間に一度

1980年4月、ニューヨークのスタジオで、テッチン・シェイは信じがたいほど単純なことを始めた。工場用のタイムレコーダーを据えつけた。毎時ちょうどにカードを打刻する。昼も夜も。一年間。

タイムレコーダーの横には16mmフィルムカメラが立っていた。打刻するたびに、自分を一コマだけ撮った。作業服を着ていた。始める前に頭を剃った。それから髪は伸びるにまかされ、一コマごとに少しずつ長く記録された。

一年は8,760時間。シェイは133回の打刻を逃した。それを隠さなかった。日記の空白のように、作品の一部になっている。

テート美術館はいま、残されたものとしてこの作品を所蔵している。ポスター、手紙、写真、タイムカード、タイムレコーダーそのもの、16mmカメラ、無声のカラーフィルム、そして作業服。

一晩ぐっすり眠ることは一度もない

規則は軽く聞こえるが、生きるには重かった。毎時打刻するということは、一度に一時間以上眠れないということ。遠くへ出かけられない。忘れることは許されない。一日が等しい断片に切り分けられ、それぞれが機械のカチリという音で終わる。

その前、シェイはスタジオのなかにつくった檻に一年間閉じこもっていた。Tate Etc. に掲載されたマリーナ・アブラモヴィッチとの対話で、彼は、檻のなかでは時間を服役していた、その考えをタイムレコーダーで服役の時間を記録することで続けたかった、と語った。一年を、人が人生を数える基本の単位、地球が太陽を一周する時間と呼んだ。

彼は現実の時間を使うことを好んだ。彼の言葉では、それによってアートの時間を生き、自由に考えることができた。そこに逆説がある。自由は、ほとんど何も許さない規律から生まれた。

その年のふつうの一日を思い描いてみる。7時に打刻。料理をし、本を読み、8時にまた打刻。仮眠をとり、目覚ましをかけ、9時に起きて打刻。大きなことは何も起きない。同じ動作が一日二十四回繰り返され、やがて一つの生活全体のリズムになる。

一年を約6分に

コマはのちに短いフィルムにつなげられた。一年が約6分に縮められる。見ていると、シェイの髪が微速度撮影の草のように伸びていく。顔が変わる。打刻を逃したところで、ときどき像が跳ぶ。

ここで作品は二つの異なる時間をあらわにする。ひとつは時計の時間。均等で、硬く、疲れには無関心。もうひとつは身体の時間。眠り、空腹、起き上がれない時間。133回の打ち損じは、その二つがぶつかった場所だ。

多くの人はこの作品を労働の像として読む。タイムレコーダーは工場のもので、そこでは労働者の時間が時給で買われる。シェイは自分の時間を誰にも売らなかった。自分のために打刻し、その反復を作品に変えた。

彼は多くを説明せず、作品を自伝として読むことには抵抗してきた。残るのはカードの束、写真の連なり、そしていまも開かれた古い問いだ。人生を測るものは何か。1968年から1979年まで、河原温は起床時刻を絵はがきにスタンプで押し続けていた。二人のアーティスト、同じものを記録する二つの方法。一時間ごと、一日ごとの、そこにいたということ。