エッセイ · 嗅覚アート
ヴィム・デルボア「Cloaca」
Wim Delvoye. Cloaca.
機械は、消化していることを匂いで証明する。
身体のない身体
2002年のはじめ、1月25日から4月28日まで、ニューヨークのニュー・ミュージアム・オブ・コンテンポラリー・アートは、長さ30フィートを超える機械を展示した。管とポンプでつながれたガラス容器の連なりで、コンピューターで監視されていた。中には酵素、細菌、酸。名は「Cloaca」。
ベルギーの作家ヴィム・デルボア(Wim Delvoye)は、アントワープ大学の科学者たちとこれを造った。目的は言うのはたやすく、実現は難しい。口から出口まで、人の消化器系を再現すること。
「Cloaca」には皮膚も顔も手もない。あるのは腸だけ。もっとも低く、もっとも基本的な機能以外をすべて剥ぎ取られた身体。
二度の食事、一度の排泄
1日に2回、誰かが機械の脇の階段を上り、3品のコース料理を運んだ。展示に協賛する地元のレストランが提供したものだ。料理はグラインダーに入れられ、粉砕され、システムへ送り込まれた。
機械の中の消化には約22時間かかった。食べ物は容器から容器へ移り、それぞれの酵素、それぞれの細菌の群れに、それぞれ設定された温度で出会った。最後に1日1回、機械は排泄した。
以前の版では、排泄物は樹脂の瓶に封じられ、アートとして売られた。ニュー・ミュージアムでは閉じた区画に保管され、訓練を受けた係員が取り出した。
区画は匂いを閉じ込めなかった。The Brooklyn Rail の評者は、ひどく親密な仕方で見分けのつく悪臭に触れている。部屋にいた誰もがそれを知っていた。説明を必要とする人はいなかった。
技術と本物の問い
「Cloaca」の制作費の見積もりは、200,000ユーロにまで及んだ。大金、科学者のチーム、コンピューターシステム。すべては、どの身体も毎日無償でつくっているものをつくるためだった。
その不条理も作品の一部である。機械が腸の仕事をこなせるなら、私たちだけのものとして何が残るのか。身体がただの食品加工機なら、私たちの残りはどこに住むのか。
The Brooklyn Rail の評は、作品を同時に二つの方向から読む。「Cloaca」は人間を処理装置へと還元する。だが機械の不器用さと高価さは、人が生物学よりはるかに複雑であることをも裏づける。
「Cloaca」は価値についての作品でもある。アートの世界では、物は希少であるとき、署名を帯びるときに貴重になる。デルボアはもっともありふれたもの、誰もが隠したいものを取り上げ、美術館に置き、かつては瓶に詰めて売った。
証人としての鼻
「Cloaca」を見る者は工学を見る。管、容器、配線、画面。目は、それを模型だと、消化の図解だと思うかもしれない。
鼻はだまされない。匂いが広がると、機械は模型であることをやめる。部屋の中で起きている本物の過程になる。説明が描写しかできないことを、匂いは確かめる。
だから「Cloaca」は、デルボアが匂いについての作品として造ったわけではないにせよ、匂いを用いるアートの歴史に属する。臭いは選ばれた素材ではなかった。避けられない帰結だった。そして避けられなかったからこそ、もっとも強い証拠になった。
「Cloaca」は、ポープ・L のピーナッツバターの絵画とよく並ぶ。そこでも匂いは、ひとりでに変化する素材から生まれる。どちらでも匂いは、誰も完全には制御できない作品の部分である。